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幻のバロンドール、F・プスカシュ。
“マジック・マジャール”の残光。

posted2019/11/18 18:00

 
幻のバロンドール、F・プスカシュ。“マジック・マジャール”の残光。<Number Web> photograph by L'Equipe

1960年10月、チャンピオンズカップ1回戦。バルセロナとのホームでの試合で、2-2で引き分けてしまったレアル・マドリーのプスカシュ(右)。

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ロベルト・ノタリアニ

ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni

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L'Equipe

 2019年のバロンドール(『フランス・フットボール』誌主催)は12月2日に発表される。11月8日の投票締め切りを前に私(田村)も駆け込みで投票したが、本命不在の今年は誰が栄誉を勝ち取るか全く予想がつかない。

 30人の候補リストの発表に先立ち、FF誌は10月8日発売号から「バロンドールに忘れられた男たち」の連載を始めている。「類い稀な存在であり、その才能を広く認められながら、バロンドールを一度も獲得できなかった選手たちがいる。そんな無冠の男たちに光をあて、彼らの埋もれた歴史を掘り起こす」のが、短期集中連載の目的である。

 その第1回が、ロベルト・ノタリアニ記者によるフェレンツ・プスカシュである。かつて私は、ジャック・フェラン(1920/3/30~2019/2/7。1985年まで『フランス・フットボール』誌と『レキップ』紙の編集長を務めた、欧州チャンピオンズカップ=現UEFAチャンピオンズリーグとバロンドールの創設者のひとり。フランスのスポーツジャーナリズム史上、最も偉大なジャーナリストのひとりに数えられる)にバロンドールの話を聞いたとき、彼が「最も大きな後悔は、プスカシュを受賞させることができなかったことだ」と語ったのが深く印象に残っている。

 史上最強チームと言われた“マジック・マジャール”ハンガリー代表のキャプテンでありながら、プスカシュには悲運がつきまとった。西ドイツに逆転負けを喫した'54年ワールドカップ決勝。'56年ハンガリー動乱による亡命と出場停止。そしてレアル・マドリーでの第2のサッカー人生……。

 プスカシュにとって唯一最大の受賞機会であった'60年をノタリアニ記者が振り返る。

監修:田村修一

ハンガリーの栄光からレアル・マドリーへ。

 ハンガリーからスペインへの亡命騒動による長期の出場停止が明けた後のフェレンツ・プスカシュは、ヨーロッパにおけるレアル・マドリーのヘゲモニーの最期を支えた選手のひとりとなった。

 1960年、すでに33歳になっていた彼は、10年前の非の打ち所がないアスリートのシルエットをもはや保ってはいなかった。それはピークを過ぎたベテラン選手として、観客にとってひどい揶揄の対象ですらあった。だが最終的にプスカシュは、'60年代の後半になっても、その引退の直前になっても、輝き続けたのだった。

 観客からの聞くに堪えないあざけりは、彼がレアル・マドリーに加入した1958年春に始まった。醜く太った彼を見たスペインのプレスは、ニックネームである“ギャロッピング・メジャー(疾走する少佐)”をもじり“太鼓腹の少佐”と呼んで揶揄した。それはハンガリー代表とホンベド・ブダペスト(軍隊のサッカーチーム。“メジャー/少佐”の由来)のキャプテンとして、栄華を極めたプスカシュにとっては屈辱以外の何ものでもなかった。

【次ページ】 伝説のマジック・マジャールを率いた主将。

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