フランス・フットボール通信BACK NUMBER
幻のバロンドール、F・プスカシュ。
“マジック・マジャール”の残光。
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byL'Equipe
posted2019/11/18 18:00
1960年10月、チャンピオンズカップ1回戦。バルセロナとのホームでの試合で、2-2で引き分けてしまったレアル・マドリーのプスカシュ(右)。
偉大なるハンガリー代表へのオマージュ。
迎えた1960年のバロンドールは、秋が深まるまでプスカシュが本命と言われていた。
彼がキャリアの前半で成し遂げたことの数々に鑑みれば表彰は当然であり、同時にそれは偉大なハンガリー代表への敬意に満ちたオマージュでもあり、歴史の皮肉に対する反論でもあった。
次のような疑問を……当時の多くの人々は常に抱いていたからだ。
もしもプスカシュが足首を負傷していなかったら、ハンガリーは'54年のワールドカップ決勝で負けることはなかったのか?
もしもハンガリー動乱がなかったら、ホンベド・ブダペストはチャンピオンズカップにおいて後々まで輝きを放っていたのか?
だからこそ、プスカシュのバロンドール戴冠は、ハンガリーサッカーの栄誉のためにも、また彼のカムバックへの大いなる祝福にもなっていくはずだったのである。
プスカシュのバロンドールは盤石と思われた。
レアルでの最初の2シーズンに、“パンチョ(スペインでプスカシュが新たに与えられたニックネーム)”は公式戦70試合に出場し72ゴールをあげていた。
'59~'60年シーズンだけだと36試合で47得点で、これはホンベド時代の'49~'50年シーズンに31試合で50得点をあげて以来の好成績だった。リーガでは24試合で25ゴールを決め、スペインで最初の得点王を獲得している(後に3度獲得)。
さらにチャンピオンズカップでは、準決勝までに8得点を決めてレアルを5年連続となる決勝進出に導いた。そして'60年には、前年とは異なり監督も彼を決勝の舞台から遠ざけることなく、積極的に重要な試合で起用していった。
1960年5月18日、ハンプデンパーク(グラスゴー)でおこなわれたアイントラハト・フランクフルトとの試合で、彼は今日に至るまで破られることのない決勝4得点を決めている。ディステファノもハットトリックをマークして、レアルは7対3という歴史的な勝利を収めたのだった。
この活躍で、投票委員の大方はプスカシュに票を入れるだろうと思われた。
さらにレアルは、グラスゴーでの大勝の4カ月後に新たなトロフィーを獲得した。ペニャロール・モンテビデオとの間で争われた第1回インターコンチネンタルカップ(後のトヨタカップ)において、モンテビデオでの第1戦を0対0で引き分けたレアルは、ホームのサンティアゴ・ベルナベウで5対1とペニャロールを粉砕し、最初の世界王者に輝いたのである。この試合では、プスカシュも7分間で2得点を決めて勝利に貢献、彼のバロンドール受賞は盤石と思われた。
だが、落とし穴は10月に待っていた。