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幻のバロンドール、F・プスカシュ。
“マジック・マジャール”の残光。
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byL'Equipe
posted2019/11/18 18:00
1960年10月、チャンピオンズカップ1回戦。バルセロナとのホームでの試合で、2-2で引き分けてしまったレアル・マドリーのプスカシュ(右)。
伝説のマジック・マジャールを率いた主将。
“マジック・マジャール”と呼ばれたハンガリー代表は、'52年のヘルシンキ五輪を圧倒的な強さで優勝し、'53年11月25日にはウェンブリーでヨーロッパ大陸のチームとしてはじめてイングランドに土をつけた。それも6対3という、圧倒的な大差で。
「渦巻き」と言われた流動的なプレースタイルとMM型の斬新なフォーメーション(後のブラジルの4-2-4システムの原型とされる)、GKグロシチはじめプスカシュ、コチシュ、ヒデクチ、チボール、ボジク、ブダイにいたるまでの選手個々の卓越した技量――ハンガリーはサッカーに革命をもたらし、世界サッカー史上最強チームの評価を得たのだった。
だが、マドリードに現れたプスカシュには、全盛時代を彷彿させるものは何もなかった。
'56年秋に起こったハンガリー動乱では、改革を唱え民衆蜂起を起こした自由派がソビエトの軍事介入で徹底的に弾圧された。ブダペストの街も、ソ連軍の戦車に蹂躙された。
ホンベドの一員としてスペイン遠征中だった彼は、帰国しないことを決意。実際の地位が軍人であったためハンガリー協会からは脱走者のように見なされ、FIFAによる出場停止処分(=18カ月、後に15カ月に軽減)を受けて、親善試合にしか出場できなくなってしまった。
その絶望的な状況が、彼をピッチから遠ざけると同時に不摂生な生活へと追い込んだ。
救いの手を差し伸べたのが、かつてホンベドでスポーティングディレクターを務めたエミール・オステルレイヒャーだった。彼が、レアル・マドリーのサンティアゴ・ベルナベウ会長を説得し、プスカシュに2度目のチャンスを与えたのだった。
ディステファノを支える選手として。
プスカシュも本気で復帰に取り組んだ。
再びプロサッカー選手としてプレーできるフィジカルコンディションを回復するために、血のにじむような努力を彼はおこなった。思い切ったダイエットと過酷なトレーニングにより15kgの減量に成功し、'58年9月半ばのリーグ戦で見事に公式戦復帰を果たしたのだった。
当時のレアルに君臨していたのはアルフレッド・ディステファノだった。プスカシュには“ブロンドの矢(ディステファノのニックネーム)”に自分を合わせるというサッカー選手としての知性があった。
選手として卓越していたディステファノはロッカールームのリーダーでもあり、第一線で再び成功するための最大の鍵であることをプスカシュは即座に理解したのである。実際、ヨーロッパ最高の選手と見なされていたディステファノは、1957年と59年の2度バロンドールを受賞した。