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「サッカーA代表、最後の覚悟」
過去と今と。酒井友之の小さな後悔。 

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吉崎エイジーニョ

吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki

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photograph byKazuya Gondo/AFLO SPORT

posted2019/09/10 12:05

「サッカーA代表、最後の覚悟」過去と今と。酒井友之の小さな後悔。<Number Web> photograph by Kazuya Gondo/AFLO SPORT

2000年12月、日韓戦での酒井友之。2013年8月に現役引退。その後、浦和に戻って指導者の道を歩む。現在は同クラブのジュニアユースコーチを務める。

「ラモスさんにめっちゃ叱られた」

 A代表での“年上”からの洗礼は、思わぬところにあった。試合後、酒井はゲームを録画した映像を見て愕然とする。

「試合のピッチリポーターだった、ラモスさんにめっちゃ叱られていたんですよ」

 中継では、後半43分すぎに解説の水沼貴史氏とラモス瑠偉氏のこんなやりとりがあった。

「ラモスさん。ラモスさんの目の前の右サイドのスペース、大きく空いていますよね」

「そうです。どんどん前に行かなきゃ。味方も気づいていないし、ベンチも気づいていないんですよ。なんのために酒井選手が入ったのか、分からないですよね」

 酒井は、「守備のことは考えるにせよ、確かに前にスペースがあったから、行けるときは行かなきゃいけなかったのかな」と猛省した。ポジションを争った明神智和をはじめとして、周囲の力が上だと認めざるを得なかった。「これが最後の機会かもな」と悟ったのだった。

「できるならもう一度やりたいですよ」

 酒井にとって、日本代表のキャップ「1」とは、夢中で過ごした代表での若き日々のなかで、最後にして最高の煌きだった。

 その後、'01年に名古屋グランパスに移籍すると、「まずはクラブでのレギュラー争いに集中」という考えに変わっていく。翌年に一度、40人規模の代表合宿に呼ばれたが、生き残ることはできなかった。'08年、30歳を迎える前になると古傷の腰痛もあり、クラブチームでも出場機会を失っていった。'10年からの3年間、キャリアの晩年はインドネシアのクラブでプレーした。

 酒井はあの韓国戦について、今こう口にする。

「できるならもう一度やりたいですよ」

 しかしその理由は「多くの方が見る前で、もう一度戦ってみたい」というもの。そこには、後悔の感情は強くは感じられない。

 むしろ現在の彼から感じるのは、自らの特徴、ありよう、過去の状況、そして運命を受け入れ、どんと構えて今を生きる強さだ。

 過去にすがって生きるのなら、「ワールドユース準優勝」を誇るだろう。世界2位になったのだ。しかし現実の世の中、自分をプレゼンする時間などそれほど長くはない。シンプルに説かなくてはならない。たとえそれが「失敗の経験」だとしても、世の認識に合わせる。

「元日本代表という肩書のおかげで、若い選手がこちらの話に耳を傾けているなと感じることはあります。そう考えると、たったの15分だけどトルシエが試合で使ってくれたことが、本当にありがたいなと思いますよね」

 ただ、その価値はずっと後になって気づくものだった。何せ2000年当時は、「招集やベンチ入りだけではなく、出場できてこそ、日本代表歴がつく」ということすらあまり強く意識していなかったのだ。

 酒井が、今の持ち場である浦和レッズアカデミーの若い選手に伝えられる点はこういったことではないか。

 今、この時が最後になるかもしれない。そういう覚悟を持て。

 ただ、結果は思い通りにならないこともある。その時は挑戦の機会を与えてくれた周囲に感謝しろ――。

【次ページ】 「海外に行ってみたい」という思いは。

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