One story of the fieldBACK NUMBER
佐々木朗希“登板回避”を予感していた
ある人物と、35年前のエースの記憶。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byAsami Enomoto
posted2019/08/08 11:40
佐々木は最後の夏を振り返り、「100%を出したかも、出たかも分からない」と語った。
OBの1人が、この結末を予見していた?
そしてじつは、岩手大会が始まる前から、ある意味、この結末を予見していた人がいるのだ。
今野一夫さん。大船渡野球部のOBである。
1984年、春夏甲子園に出場し、センバツでは4強に入り「大船渡旋風」を巻き起こした当時の3番・ライト。
卒業後は早稲田大を出て、母校の監督を11年務めた。現在は大船渡の街で家業の自動車販売店を継いでいる。岩手県では高校野球解説者としても知られる存在だ。
その今野さんに会ったのは初戦を迎える前の日、7月15日だった。その時、岩手大会の開会式で国保監督と顔を合わせて、耳にした言葉が妙に頭に残っているということを話していた。
「『何とか無事にここまできました』と言っていたんですよ。国保先生も大変だったんだなと思いました。壊しちゃいけないという重圧があったんでしょう」
何とか無事にここまできました――。
まだ何も始まっていない、むしろここから全てが始まるという開会式で監督から出た、この言葉はいかにこのチームが特殊なものを背負っていたかということを物語っている。
「余計なこと言っちゃったのかなあ」
佐々木をめぐっては2年生の頃から国内プロ球団のスカウトはもちろん、メジャー球団からも編成部長、副社長クラスの人間まで、この逸材を見るために大船渡を訪れていたという。
今春、U-18日本代表の合宿でエンゼルス大谷の記録を超える高校最速163kmをマークしてからは、もう彼は大船渡の、ではなく、日本の、野球界の宝になってしまった。
そういう状況が、指導者にどういう影響を与えるだろうか。
今野さんは、まだ大会前にも関わらず青年監督が漏らした言葉に、計り知れない重圧を感じたという。
そんな彼に、今野さんはこう言ったという。
「その時に、『先生、僕が思うのは、今大会は、佐々木くんは痛くても痛いとは言わないと思いますよ』と、そう言ったんです。余計なこと言っちゃったのかなあ……」