One story of the fieldBACK NUMBER
佐々木朗希“登板回避”を予感していた
ある人物と、35年前のエースの記憶。
posted2019/08/08 11:40
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
Asami Enomoto
8月6日、夏の甲子園が開幕した。
今や100万人を動員するようになったモンスター・トーナメント。
ただ、今年は令和元年、101回大会ということもあるのかもしれないが、この大会について、球数や日程、そもそも球児は絶対的に甲子園を目指すべきかという価値基準さえ、かつてないほどに議論されているような気がする。
そのきっかけとなったのはやはり7月25日、岩手大会の決勝戦で、全国ナンバーワンといわれる大船渡高校のエース佐々木朗希が登板しなかったことだろう。
中学ですでに140kmを超える速球を投げ、強豪私立から勧誘も受けたが、「この仲間と甲子園に行きたい」と、自宅から数分のところにある地元・大船渡高校で野球をすることを選んだ。
高校野球界を騒がせた登板回避。
やがて160kmを投げるようになる彼と仲間たちを指導したのは、32歳の国保陽平監督。盛岡一高から筑波大を出て、アメリカ独立リーグでプレーした経歴を持つ青年監督である。
佐々木と仲間たちが迎えた最後の夏、監督は19球→中1日→93球→中2日→194球→中2日→129球→中0日で花巻東との決勝戦を迎えたエースを登板させず、試合にすら出場させないという決断を下した。
「故障を防ぐためです。連投で、暑いこともあって。投げたら壊れる、投げても壊れないというのは未来なので知ることはできないんですけど、決勝という重圧のかかる場面で、3年間の中で一番壊れる可能性が高いのかなと思いました。投げなさいと言ったら投げたと思うのですが、私には決断できませんでした」
その監督の決断を笑顔で受け入れたという佐々木は2-12と大敗した後に涙をこらえた。
「監督の判断なので……。高校野球をやっている以上、試合に出たい、投げたいという気持ちはありました」
これがこの夏、広く第三者まで加わって議論となったシーンである。