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1998年夏、横浜は4連戦だった。
1つ下の後輩が見た松坂大輔の苦悩。 

text by

田中大貴

田中大貴Daiki Tanaka

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photograph byHideki Sugiyama

posted2019/08/12 08:00

1998年夏、横浜は4連戦だった。1つ下の後輩が見た松坂大輔の苦悩。<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

1998年に優勝した横浜高校。8月19日の3回戦・星稜戦から22日の決勝・京都成章戦まで4連戦だった。

伝説の一戦、横浜ナインは朝4時起き。

 伝説に残る一戦となった、横浜高校対PL学園。あの日、横浜高校ナインは朝4時起き。身体を起こすため、試合開始時刻8時30分の4時間30分前に起床しなければいけなかった。そして延長17回が終わった時には、正午を回っていた。

「宿舎に帰ってから昼食を取りました、誰もしゃべらない。というか、しゃべれないほどに疲れ切っていました。そして、翌日の明徳義塾戦に向けた夜8時のミーティングまで睡眠をとったんですが、起きた時、疲れが取れていない身体に不安が募りました」

 さすがに10代の身体も、炎天下で行われた4時間ゲームに悲鳴を上げていた。

「後藤(武敏)さん、常盤(良太)さんは腰を痛め、山野井(成仁)さんは手首がダメでした。僕はかろうじて大丈夫だったんですが、250球投げた松坂さんは本当に大丈夫だろうかと……あんなに疲れ切った松坂さんを見るのは初めてでしたから」

松坂が「明日は投げられない」。

 松本は食事をとりながらも松坂の様子が気になり、何度も目をやったという。

 いつも「明日も必ず投げます」と言ってくれるのが松坂大輔。その松坂が「明日は投げられない」とメディアの前で語った衝撃を、松本は今でも忘れないという。

「当時は球数制限という概念なんてなかったんです。松坂さんがPL学園戦を9回で投げ終わっていれば、翌日の明徳義塾戦も先発していたはずです。渡辺監督は250球という球数を見て、準決勝は先発させないという決断を下しました。春夏連覇のためには松坂さんが投げることが絶対条件。そんな空気感の中で、松坂さんを休ませる英断を下した渡辺監督はさすがだと思いました」

 渡辺監督と小倉部長はあの夏、選手の疲労回復のために軽いバットを導入したり、治療やマッサージ、ストレッチの量を増やしたり、疲労の中でいかに選手のパフォーマンスを保つかに気を配っていたという。それがあったことで春夏連覇は達成されたと、松本は思っている。

【次ページ】 「甲子園で野球人生は終わりではない」

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