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1998年夏、横浜は4連戦だった。
1つ下の後輩が見た松坂大輔の苦悩。
posted2019/08/12 08:00
text by
田中大貴Daiki Tanaka
photograph by
Hideki Sugiyama
ちょうど20年前、1999年の夏。横浜高校のキャプテン松本勉は小倉清一郎部長とともに、甲子園駅へと向かう阪神電鉄の1両目に乗り、電車に揺られていた。
前年、2年生だった松本は1つ上の松坂大輔らとともに甲子園春夏連覇を達成していた。しかし、松本の代では夏は甲子園まで辿り着くことはできなかった。
「前回大会の優勝旗を返還するため、優勝旗をケースに入れて電車で甲子園に向かいました。ホテルから横浜高校のユニフォームを着て、目立つようにあえて1両目に乗りました。電車に揺られながら悔しさも込み上げてきましたし、色んなことを思い出しました」
電車の中で何度も頭をよぎったのは、過酷だった1年前の夏のこと。2年生だった松本は、大会期間中の3年生の様子がよく見えていた。
ゲーム内外での状況分析能力が抜群。
「'98年は春も夏も、2年生で試合に出続けていたのは僕だけでした。1つ下だからこそ、松坂さんたちの動きや心境や表情をできるだけ読み取って、先輩たちに必要とされようという思いはとても強かった。'98年のことをよく覚えているのはそのせいかもしれません」
'98年の夏、二塁手として全試合スタメン出場を果たした松本。2年生ながらゲーム内外での状況分析能力は抜群と言われ、先輩たちからも絶大なる信頼を得ていた。
「'98年の夏は3回戦から決勝まで、4連戦でした。渡辺(元智)監督も小倉部長も炎天下の連戦の中で選手をどう休ませるか、いつ休ませるかを常に考えていました。そのためには3回戦の翌日、準々決勝がポイントでした。
4連戦のうちの2戦目。ここを上手く乗り切ることができれば準決勝、決勝の最後2試合は気持ちと勢いで行けると思っていました。しかし、その準々決勝はPL学園との死闘になって、まさかの延長17回。全員の体調と計算が狂いました」