JリーグPRESSBACK NUMBER
「浦和の特別」であり続けた10年。
山田直輝の忘れられない”あの日“。
text by
轡田哲朗Tetsuro Kutsuwada
photograph byGetty Images
posted2019/07/28 08:00
浦和レッズの象徴の1人だった山田直輝。29歳、再び湘南ベルマーレのユニフォームを身にまとう。
'14年キャンプの忘れられない光景。
一方で、その負傷が明けてからは厳しい現実だった印象も強い。'13年に復帰した直後に肉離れがあり、彼のキャリアは'14年が仕切り直しのタイミングになったと言える。
前述のレジェンドから「6番」を受け継いでスタートしたシーズン前のトレーニングキャンプで、忘れられない光景がある。
当時、鹿児島県の指宿市でミハイロ・ペトロヴィッチ監督の下でキャンプを行なっていた浦和において、山田はおそらくレギュラー争いで優位な位置にいた。
それは、1トップ2シャドーの構成を基本とする指揮官のトレーニングで、前年のレギュラーでもある興梠慎三と原口との3人で組むことがほとんどだったからだ。
しかしある日のメニューでのこと。3人がワンタッチで全てのパスをつなぎ、ゴールを決めた組から終了という時に、山田は連続でミスをした。ラストパスを出す立場ではボールがずれ、フィニッシャーになるとシュートが枠に飛ばず、この3人は最後まで残った。
確か、5本連続で彼がミスをしたと記憶している。
興梠や原口もさすがに苛立ちを隠せず、それは指揮官も同様だった。そして翌日、山田はボランチの選手たちに混ざってトレーニングをしていた。
ミシャ体制で求められたプレー。
正直なところ、「もしあの練習の1本目で何事もなく決めていたら」という思いは今でも拭えない。あまりにも、その日を境にしてチーム内での立場に変わったように思えてならないからだ。
ミハイロ・ペトロヴィッチ監督のチームでは、シャドーとボランチでは許容されるプレーが大きく違う。多くの局面に顔を出したい山田のプレーは、なるべくボランチに定位することを求める指揮官のスタイルとは噛み合わず、より難しい状況になってしまったように見えた。
当時、山田とポジションを争っていた梅崎司や李忠成は、そうした状況で回ってきたチャンスを生かしたからこそ出場機会を増やしたと言える。