JリーグPRESSBACK NUMBER
「浦和の特別」であり続けた10年。
山田直輝の忘れられない”あの日“。
posted2019/07/28 08:00
text by
轡田哲朗Tetsuro Kutsuwada
photograph by
Getty Images
サッカー選手、プロサッカークラブとしての決断に正しさを感じるし理解もできる。しかし、心のどこかに寂しさがあることは否めない。
それが、山田直輝の浦和レッズから湘南ベルマーレへの期限付き移籍が7月24日に発表された時の印象だった。
彼は「サッカーの街」とうたう浦和という地域にとって、1つの象徴でもある。小学校時代にFC浦和で、中学と高校は浦和の下部組織で全国制覇を果たし、トップチームへ昇格した。
高校3年生だった2008年には、高円宮杯第19回全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会の決勝で名古屋グランパスU-18に9-1で圧勝。その優勝メンバーには、原口元気や高橋峻希、濱田水輝らが名を連ねた。'09年のトップ昇格を勝ち取っていった彼らは、浦和ユース黄金世代とも称された。
当時のトップチームには、クラブの“レジェンド”と言える同姓の山田暢久が所属していたこともあり、「直輝」という呼び名の方が苗字よりも強く定着していった。フォルカー・フィンケ監督が率いたチームの中で開幕直後からレギュラーを獲得し、5月には岡田武史監督が率いる日本代表にも招集されてデビューも果たした。
浦和のサポーターがたまたま選手に。
その当時の記憶と印象は鮮烈だ。トップ下の位置で巧みにボールコントロールしながら、縦横無尽にスペースへ向かって走り込む。年齢など関係なく、中心選手としてのプレーをしていることに疑いはなかった。
だから、'10年に2度の骨折をしてほぼ1年を棒に振っても、'11年に当時のゼリコ・ペトロヴィッチ監督に適正と言いづらいサイドで起用されて苦しんでも、'12年にロンドン五輪世代の中心と目されながら左膝前十字靭帯損傷で長期離脱しても、彼への期待感は決してしぼまなかった。
彼自身もまた浦和で育った人物であり、「浦和のサポーターがたまたま選手になった」と話すほどのクラブ愛を持つ選手だ。そうした背景もまた、浦和サポーターにとって山田を特別な選手にしていたとも言えるだろう。