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「自分は自分だと思ったこともないので……」大谷翔平が振り返る“『雄星はこうだった』とよく言われた高校時代” 

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石田雄太

石田雄太Yuta Ishida

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photograph byJIJI PRESS

posted2021/08/11 17:00

「自分は自分だと思ったこともないので……」大谷翔平が振り返る“『雄星はこうだった』とよく言われた高校時代”<Number Web> photograph by JIJI PRESS

「岩手から日本一」のボードの前で意気込む大谷翔平(2011年撮影)

「練習を見て、やっぱりいいなと思いました。雰囲気がよかったんです。チーム全体の雰囲気もよかったですし、いい練習をしていました。甲子園に行くとか、行かないとかいうことも大事ですけど、いち選手としての技量を上げるために大事なことってあると思うんです。そのいち個人の、選手としての能力を伸ばす練習としても、すごくいいんじゃないかなと思いました。今は効率的な練習が大事じゃないですか。部員も多いですし、レギュラーの子とそうじゃない子の統率をしっかりとってやっていかないと、人数の多いチームはうまく回って行かないと思うので……」

佐々木監督と決めた“高校で160kmを投げる”

 花巻東に入学した大谷は、そこで監督の佐々木洋と出会う。大谷の記憶に残る佐々木監督の最初の印象は、言葉ではなかった。

「目力です(笑)。監督って、目が、カッとしているじゃないですか。第一印象は目力がすごいなって思いました」

 花巻東に入学した大谷は、体づくりを優先させて、ピッチャーではなく野手として試合に出た。1年の春から4番を任されていたのだが、佐々木監督はじつはバッターとしての大谷にはさほど期待していなかった。菊池のような選手は岩手からは二度と出てこないと思っていた佐々木監督だったが、菊池が卒業した途端、「ダルビッシュ有みたいな」(流石裕之部長)1年生が入学してきたのだから、佐々木監督の驚きたるやいかばかりだったか、想像がつく。大谷自身もピッチャーへの意識が高かったこともあって、佐々木監督と大谷はピッチャーとしての高い目標を設定する。それが、160kmを投げる、ということだった。

「できないと決めつけるのは自分的には嫌でした。160kmを目標にしたときも、できないと思ったら終わりだと思って、3年間やってきました。高校のときに160kmを投げるのも、日本一になるというのも、メジャーへ行く目標の前にあったわけじゃなくて、それぞれがまったく別の道のうちの一つでした。なので、当時の僕は日本一になることを全力で追っていましたし、そうなればこっち(メジャー)にも近づく、という感じだったと思います」

監督からよく言われた「雄星はこうだった」

 大谷を育てるにあたって、雄星のときの経験を参考書として使わせてもらった、と佐々木監督が話してくれたことがあった。大谷が入学してきたとき、目標を“160km”に設定したのも、“プロ8球団からの1位指名”を掲げたのも、6球団から1位で指名された菊池を越えるところに目標を設定しなければ菊池の域にも達しない、という佐々木監督の想いから紡がれた道しるべだった。

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