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清原和博の返信、大切な戦友たちへ。
忘れない13本のホームランとバット。 

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

PROFILE

photograph byHirofumi Kamaya

posted2019/07/12 10:00

清原和博の返信、大切な戦友たちへ。忘れない13本のホームランとバット。<Number Web> photograph by Hirofumi Kamaya

高校時代に甲子園で放った13本のホームラン。今でもそのすべてを鮮明に覚えているという。

憧れの投手から放ったホームラン。

 1983年の夏、横浜商の三浦さんから甲子園で最初のホームランを打ちました。

 決勝戦で三浦さんと対戦する時、僕の心の中は憧れでいっぱいでした。岸和田で少年野球を始めたばかりの頃から甲子園を目指していて、まだPL学園に入学する前の春には池田高校とセンバツの決勝で対戦する三浦さんをテレビで見ていました。だから、実際に打席に立った時は、テレビの中にいるスーパースターを見るような感覚でした。

 あの決勝戦の前の日、準決勝で池田高校のエース・水野さんに4三振を食らっていたので、とにかくあの日は「悔いのないようにバットを振ろう」としか考えていませんでした。第1打席、追い込まれてから打ったあのボールの残像は今でも頭に残っています。ただ、球種がなんだったのかは全くわかりませんでした。フォークがすっぽ抜けたものだったというのは、三浦さんの言葉を読んで初めて知りました。

 あの時の僕のスイングでは、おそらくあのボール以外であればバットに当たっていなかっただろうと思います。三浦さんは大きなカーブを持っていましたし、他の球種であれば、ストレートでも、カーブでも、空振り三振だったでしょう。

 打球がライトへ飛んでいく光景も、「ホームランにはならないだろう」と思いながら一塁へ走った心境も、まるで昨日のことのように思い出せます。

投げ合ったことも、13本のホームランも。

 高校3年のセンバツで戦った浜松商のエース浜崎くんとは中学時代、全国大会の決勝で投げ合いました。岸和田シニアのエースで4番として初めて東京へ行って、神宮球場へ行って、小さな体からこれだけキレのある球を投げるピッチャーがいるのか、これだけ機動力を使う野球があるのか、と衝撃を受けたことを鮮明に思い出します。

 僕は本当に、高校1年生の夏に打った1本目から、3年生夏の決勝戦で宇部商の古谷くんから打った13本目までを、はっきりと覚えているんです。

 そして、最後の夏、決勝が終わったあとに宇部商の背番号「1」田上くんがずっと泣いていた姿も記憶に残っています。

 じつは、高校3年春のセンバツ2回戦で宇部商と戦ったとき、僕は田上くんに抑え込まれました。その大会、準決勝で伊野商の渡辺くんに3三振を奪われて敗れたことがクローズアップされましたが、渡辺くんに匹敵するくらいの衝撃を受けたのが、田上くんとの対戦でした。どんどんインコースにストレートを投げ込んできて、すべての打席でつまらされた覚えがあります。

【次ページ】 「甲子園で会おうな」真っ向勝負の約束。

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