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慶応医学部とラグビー部主将。
古田京が二兎を追って得たもの。 

text by

生島淳

生島淳Jun Ikushima

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photograph byShigeki Yamamoto

posted2019/06/28 17:00

慶応医学部とラグビー部主将。古田京が二兎を追って得たもの。<Number Web> photograph by Shigeki Yamamoto

子供たちにラグビーを教える古田。医学部5年生となった今も、ラグビーとの付き合いは続いている。

“両立”のきっかけは高校ジャパン。

「本当に負けた時点で僕のラグビーは終わりだと思っていましたから、花園では全国優勝を目指していました。ところが、3回戦で準優勝した御所実業に14対19で負けてしまって……。ここを突破できていれば、決勝まで進めたんじゃないかと思います」

 慶応が好勝負を演じたことが、古田の人生に少なからず影響を与える。プレーが評価され、高校日本代表に選ばれてしまったのだ。

「ラグビー人生が延長になりました。『頑張ったご褒美かな』と思っていましたが、高校ジャパンではフランスに遠征したんですが、全国から集まった同学年の選手たちとプレーしたら、楽しくなってしまって(笑)。『ひょっとしたら、大学でもやるかもしれません』って、調子のいいことをみんなの前で言ってしまったり(笑)。

 でも、これって自分の素直な思いだと感じたので、ヘッドコーチになったばかりの金沢さんに相談をし始め、医学部とラグビーの両立がどうやったら可能なのかを模索し始めました」

 蹴球部側も古田のチャレンジをサポートすることを約束、こうして古田は「二兎を追う」ことになった。

1年生でポジションを獲得、戦力に。

 しかも、1年生でスタンドオフのポジションを獲得、慶応大にとってなくてはならない戦力になっていく。

「入部した時は、Cチームで終わっても仕方がないと思ってました」

 ただし、しんどい時期もたしかにあったという。

「医学部の2年の秋には解剖実習があり、その準備に追われました。それがちょうど対抗戦の時期と重なったんですよ。げっそりして試合に出ていて、自分としては出来が悪く、チームに申し訳なくて」

 古田がプレーしていた時期、慶応は考え抜かれたラグビーをしていた。FWは献身的で、BKもそれなりに決定力はあった。ただし、ライバルたちも強い。慶応は正月を越せないジレンマを抱えていた。

2015年 対抗戦4位 大学選手権セカンドステージ敗退
2016年 対抗戦4位 大学選手権準々決勝敗退(天理大 24対29)
2017年 対抗戦2位 大学選手権準々決勝敗退(大東文化大 28対33)

【次ページ】 主将として臨んだ最後の1年。

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