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栗原恵、バレー人生に笑顔のピリオド。
ケガ、五輪落選も、すべて幸せ。
 

text by

田中夕子

田中夕子Yuko Tanaka

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photograph byKiyoshi Sakamoto/AFLO

posted2019/06/11 17:30

栗原恵、バレー人生に笑顔のピリオド。ケガ、五輪落選も、すべて幸せ。<Number Web> photograph by Kiyoshi Sakamoto/AFLO

今後については未定としながら、何らかの形でバレーボール、スポーツ界に関わっていきたい意向を明かした。

日の丸を背負う重圧。

 2大会ぶりの'04年アテネ、'08年の北京と2大会連続でエースとして出場するも、準々決勝の壁を突破することは叶わず。五輪のみならず、国際大会でも負ければ矢面に立たされて批判を浴び、試合後のコメントも慎重になりすぎるせいか、自然に言葉数も減る。ミックスゾーンで発する声も小さく、いつもどこか、うつむきがちだった。

 なぜあんなに下ばかり見ていたのか。

 時が過ぎた今、とにかく余裕がなかった、と栗原は振り返る。

「日の丸がついたユニフォームで日本を代表してコートに立つということは、幼い頃からテレビで見ていて“すごいな”と感じていた選手たちの中に、自分が入ってプレーするということ。自分は今すごいことをしているんだ、と思っていました。実際に1試合勝つと新聞で取り上げていただいて、おめでとうと言っていただける。でも反響の大きさを素直に喜ぶというよりは、逆にプレッシャーに感じてしまうタイプだったのかな、と思います」

度重なるケガでロンドン五輪はメンバー外。

 試練は、勝敗に伴い責任を背負うことだけではなかった。

 北京五輪翌年の'09年、もともと左膝に痛みがあり、たまった水を抜きながら練習や試合に臨んでいたがその水の中に細かな軟骨も混ざっており、診断結果は左膝半月板断裂。手術を余儀なくされた。

 治すためにはそれがベストであるとはわかっていたが、メスを入れれば感覚が変わる、と耳にしてきたこともあり、できることなら回避したい。何度もそう思ったが、日々痛みの度合いは増すばかり。

「この痛みがずっと続くと考えたら、自分には無理だと思ったし、先がない、と。この選択で今の状況を改善できるなら、と思って手術を決断しました」

 痛みが取れてからも状態の良し悪しをコントロールしながら、ようやく本来の感覚を取り戻し、'10年秋には世界選手権で銅メダルを獲得したが、翌年2月に左膝軟骨損傷で二度目の手術を敢行。リハビリを経て復帰を果たし、ロンドン五輪出場を目指したがメンバー選考から外れ、3度目の五輪出場には届かなかった。

【次ページ】 新たな楽しみを見つけた矢先に……。

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