ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
引退目前の長州力が張り切っている。
宮古島愛と“第2の石井智宏”育成。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byGantz Horie
posted2019/06/04 17:00
67歳にして今なお血気盛んな長州力。引退試合ではリキラリアットやサソリ固めを目に焼きつけたい。
新日退社後に出会った石井智宏。
長州は2002年5月に、オーナーであるアントニオ猪木との軋轢から新日本プロレスを退社。その後、WJプロレスを設立するが、その旗揚げに向けた合宿を2002年9月にサイパンで行なっている。
しかし設立間もないWJプロレスには、長州の付き人的な仕事をする若手選手がいなかった。
そのため、取締役の永島勝司から「長州がサイパンで合宿するので、運転手兼トレーニングパートナーとなる選手を探してくれないか?」と頼まれた、『週刊ゴング』編集長(当時)の金沢克彦が紹介したのが、石井智宏だった。
当初は新日で揶揄された石井だったが。
石井は'94年に天龍源一郎率いるWARに入門。'98年のWAR解散後は、みちのくプロレスを中心にインディー団体で闘っていたが、このサイパン合宿の最中、長州にプロとしての姿勢を問われたことをきっかけに弟子入りした。
WJプロレス所属になってからも、長州から「いまのおまえじゃ、新日本には絶対に勝てない。だから、勝てないおまえは新日本以上の練習をするしかないんだ」という檄を受けながら、厳しい練習を耐え抜いた。
そしてWJ崩壊後、'04年末に長州が新日本へ復帰すると、石井もまた新日本のリングに上がるようになる。
当初は「どうせ長州のおまけだろ? なんで、あいつが新日本に上がってるんだ?」と揶揄されたが、石井はそんな周囲の目を発奮材料にし、いつ首を切られてもおかしくない状況で常に身体を張った闘いを続け、ついに'06年から新日本のレギュラーの座を獲得。その闘いぶりは、いまや世界中のファンが一目置くようになった。
この石井智宏という存在も、いまの新日本プロレスに長州力が残した財産のひとつと言えるだろう。