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「ポンコツのゴミ捨て場行き」だった男。
ボクサー黒田雅之が世界王者に挑む夜。
text by
日比野恭三Kyozo Hibino
photograph byHiroaki Yamaguchi
posted2019/05/10 16:00
川崎のジム所属選手としては初の世界王者誕生がかかる黒田雅之。地域の縁から、Jリーグの川崎フロンターレも黒田の活動を応援する。
最初は順調だった黒田のボクサー人生。
2005年5月のデビュー戦で1ラウンドKO勝利を収めた黒田は、翌2006年にはライトフライ級の新人王にまで駆け上がる。後楽園ホールのリング上でマイクを向けられ、「最終的な目標は世界チャンピオンです!」と初めて公言した。
キャリアはおおむね順調だった。2011年5月、8ラウンドTKO勝利で日本ライトフライ級王者となる。プロ22戦目、戦績は19勝3敗だった。
だが、チャンピオンの称号を得たところから、停滞の日々は始まった。
黒田は言う。
「底の底、ですよね。キャリアをぐっと上げていかなきゃいけないのに、そこからの4回の防衛は、パッとしない判定が2回(ともに2-1)、ドローが2回。『自分ってこんなもんなのかな』って、自信がなくなってきて」
伸び悩みのまっただ中にいた2013年、黒田のもとに世界戦の話が舞い込む。1つ上の階級、フライ級のWBA王者だったフアン・カルロス・レベコへの挑戦が決まった。
オファーを受けたのは、黒田を変えるための荒療治だったのか。問いに、ジム会長の新田渉世はあっさり言う。
「その時期に組んだ狙いは特になくて。挑戦したくてもできない選手がいっぱいいるなかで、挑戦できること自体にすごく価値があるし、できるんだったらやるしかないだろってところです。
もちろん、もっと“満を持して”というほうがいいには決まってるんですけど。チャンスはその時につかまなかったら、次いつ来るか、わからないですからね」
善戦はしたが、0-3の判定で負けた。
ショック療法にもならなかった。
その後の3年間で6戦をこなしたが、3勝2敗1分と、再上昇のきっかけはつかめなかった。
「もう、ポンコツのゴミ捨て場行きになってしまう」
転機となるのは、2016年3月、粉川拓也との対戦だ。
日本フライ級王座を懸けた戦いに、黒田は敗れた。試合を映像で見返し、そこにいる自分に歯がゆさが募った。
「出せば当たる時に手が出てない。『いまここで打っても当たらないだろうな』って、自分で勝手に思ってるんです。あそこで吹っ切れた。試合でやり残しがないようにしようって考えるようになりました」
同じころ、会長の新田も手を打っていた。それまで黒田を担当していたトレーナーの孫創基(ソン・チャンギ)に代わって、会長自身が務めることにしたのだ。
新田は言う。
「新人王、日本チャンピオン、そして世界挑戦までこぎ着けたのは孫トレーナーの力だったし、黒田もすごく力をつけてきた。だけど、その力を(試合で)発揮できないという課題がずっと克服できなかった。
ありとあらゆることをしたけど、年はとる、負けて黒星は増えていく……もう、ポンコツのゴミ捨て場行きになってしまうというところで、これ以上は失うものもないんだから、違うアプローチをやってみよう、と」