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11年前の“史上最高のダービー”で優勝…歴代最速“32秒7の末脚”・エイシンフラッシュはなぜ「その後2年間」勝てなかったのか? 

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石田敏徳

石田敏徳Toshinori Ishida

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photograph byKeiji Ishikawa

posted2021/05/28 17:02

11年前の“史上最高のダービー”で優勝…歴代最速“32秒7の末脚”・エイシンフラッシュはなぜ「その後2年間」勝てなかったのか?<Number Web> photograph by Keiji Ishikawa

2010年の日本ダービーは「史上最高」と呼ばれた

 明暗の分かれ目となったのは向正面の半ば過ぎ、極端にペースが緩んだ場面だった。1番人気に支持されていたヴィクトワールピサをはじめ、たまらず折り合いを欠いてしまった馬も多かったなか、内田博幸騎手と呼吸を合わせて進んだエイシンフラッシュは上がり3ハロン32秒7という究極の末脚を繰り出して勝利を手にする。溜めに溜めたエネルギーを一気に爆発させる。それができるよう、馬をつくりあげてきたチームの技術力に勝利の凱歌があがった。

 ただ、歴代最速を記録した上がりタイムを聞いたときは胸騒ぎがしたという。

「まだ身体ができていない状態であれだけ激走したわけだから、反動が出ないはずがない。ずっと不安に思っていたし、注意も払っていました」

「それなら使えるだろう」…菊花賞の出走回避

 ダービーで埋め込まれた不安の種は秋になって芽をのぞかせた。予想以上にタフな戦いとなった始動戦の神戸新聞杯(クビ差2着)のレース後、菊花賞を目指していく調整過程で後ろ脚の飛節が微妙に腫れていることに気づく。見逃していてもおかしくない程度の腫れで、菊花賞に使おうと思えば、使えないことはない。しかし藤原調教師は使うべきではないと考え、オーナーに連絡を入れた。

 報告を聞いた平井氏は怒った。1番人気の支持を集めることはまず確実で、ダービーとの二冠制覇もかかる菊花賞を彼はとても楽しみにしていた。しかも百戦錬磨で馬のこともよく知っている大馬主である。聞けばすぐに状況が分かり、「それなら使えるだろう」となる。オーナーの言うことにも理はあるのだ。それでも藤原調教師は連日、「いや、今回はやめさせてください」と根気よく説得を続けた。

「オレの経験技術と会長(平井氏)の経験ががっぷり四つになって、あのときは本当にしんどかった。本来ならオレが折れるべきところ。だけどこっちは毎日、馬を見ているわけだし、今回は使わないほうがいいという信念があったから頑張りました」

 最終的に平井氏は「分かった、お前に任せる」と同意してくれて、菊花賞の3日前、出走回避が発表された。

2着、2着……ようやく勝てたのは「2年後」

 早期発見のおかげで患部はすぐに快方に向かい、ジャパンC(8着)、有馬記念(7着)と連戦できたほどだが、その後のエイシンフラッシュはなかなか勝てなかった。翌春の天皇賞はヒルノダムールの2着、暮れの有馬記念はオルフェーヴルの2着。頂点の舞台で好走を重ねながらも白星には手が届かなかった。

【次ページ】 「菊花賞回避」は正しかったのか?

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