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「おやめなさい。ご両親が悲しみますよ」…31年前の日本ダービー・伝説の「ナカノコール」は“競馬が認められた”瞬間だった
posted2021/05/27 11:03
text by
江面弘也Koya Ezura
photograph by
AFLO
〈初出:2019年5月16日発売号「私はそこにいた! ナカノコールの残響」/肩書などはすべて当時〉
日本競馬史上初めて、勝利騎手を称える大合唱が沸き起こった1990年の府中のスタンド。当時のブームを象徴するかのような伝説のコールは、どのようにして起こり、どう時代を変えていったのか。
アイネスフウジンの中野栄治を称えるコールは突然はじまった。スタンド1階のゴール付近でおきたコールは波紋のように広がり、スタンドを覆っていった。ダービーに乗っていた騎手たちに聞くと、その声は地下の検量室まできこえてきたという。
前代未聞の、何十年も競馬を見てきた人たちもはじめて目にする光景だった。
陽気な横山騎手も“パドックから会話はなし”
1990年5月27日、第57回日本ダービー。この日、東京競馬場の入場者は19万6517人を数えた。現在も残る、史上最多入場者記録である。
それにしてもすごい人だなあ――。奥平真治厩舎の厩務員、小島浩三(ひろみ)は黒山の人だかりのスタンドを見ながら思った。内馬場も客であふれている。
小島が担当するメジロライアンは1番人気。前走の皐月賞はよく追い込んできたが惜しい3着だった。直線の長い東京ならば、こんどこそ追い込みが決まるだろうと期待されていた。さいわい馬の調子もいい。
大歓声のなか、ファンファーレが鳴る。小島は馬をゲートに導いた。ライアンは落ち着いている。小島も騎手の横山典弘も普段は陽気な男だが、パドックから会話はない。横山はデビュー5年めの22歳。ダービーに乗るのは2回めだ。ダービー独特の緊張感がふたりを無口にさせていた。
北海道小清水町出身の小島浩三はいとこの小島太を頼って競馬の世界にはいった。最初は小島太が騎手として所属していた東京競馬場の高木良三厩舎の厩務員となり、高木が亡くなると奥平真治厩舎に移った。奥平厩舎ではメジロラモーヌ(牝馬三冠)などを担当してきた小島がダービーに馬をだすのは2頭めだ。最初は'85年のトウショウサミット。逃げて、18着だった。
22頭の馬がゲートにおさまる。巨大な歓声が沸きおこり、レースがはじまった。
この日初めての会話で「いやあ、悪いね。すまないね」
小島は外埒沿いをゴール方面に歩きながら、ターフビジョンでレースを追っていた。アイネスフウジンがいいペースで逃げている。ライアンは中団を走っている。
馬群が3コーナーから4コーナーを回り直線に向いた。ライアンは外に進路をとった。アイネスフウジンはまだ先頭だ。小島の目の前をライアンが勢いよく追い込んでいく。いい脚だ。
「それっ! それっ!!」