松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
修造が訊く! パラカヌー日本代表の
瀬立モニカはリオで障害を受け入れた。
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph byYuki Suenaga
posted2019/01/22 15:00
インタビューする側もされる側も、とにかく明るく元気な取材となった今回。パラリンピックの素晴らしさとカヌーの面白さは松岡に伝わったか?
「そんなのどうだって良いじゃないですか」
松岡「それも、僕からするととても不思議な感覚だと思います。だって、そんなのどうだって良いじゃないですか。授業がわからないのは勉強をしていなかったからでしょ。そんなの、すぐ追いつけますよ。頑張れば取り戻せる」
瀬立「でも、当時の私はそれがすごくショックなことだったんです。みんなは体育の授業でも普通に走っているけど、私は走れない。自分だってできるのに、『モニカは危ないから見学ね』って。たとえ車椅子に乗っていても、みんなと一緒にやりたいじゃないですか。体を動かせないストレスも日々感じてました」
松岡「もともとスポーツが好きだしね。余計に辛かっただろうな……。それはよく理解できます。次の段階として、そんな現実を本気で覚悟を持って受け入れられたのはいつからでしたか」
瀬立「それは、リオが終わってから」
松岡「(あ然として)え? リオの前とかではなく?」
瀬立「はい。リオが終わってからです」
松岡「それは……相当長いですね。モニカさん、何やってたんですか! リオデジャネイロ・パラリンピックがあったのは2016年だから、事故からもう3年経っている……」
瀬立「多分、それまではショックを分散していたんだと思います。『なんで自分はこんな体なんだろう……』って考えてしまうことが、3カ月おきくらいに来るんですよ。1度にではなくて、年に4回くらい。そのときは落ち込みます。でもそれが、リオに出たときにようやく気持ちの整理がついたというか、受け入れられた、と思うことができて」
松岡「パラリンピックに出たことで気持ちがどう変化したんですか」
瀬立「より正確に言うと、障害のある自分を受け入れられたんだと思います。選手村の中で生活したんですけど、そこはむしろ障害があるのが当たり前の世界で、私は少数派、マイノリティーではなくなったんです。それまでは社会でも高校でもみんな歩ける人ばかりだったから、その感覚がすごく新鮮でした」