松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
修造が訊く! パラカヌー日本代表の
瀬立モニカはリオで障害を受け入れた。
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph byYuki Suenaga
posted2019/01/22 15:00
インタビューする側もされる側も、とにかく明るく元気な取材となった今回。パラリンピックの素晴らしさとカヌーの面白さは松岡に伝わったか?
現実を受け入れないことで、気持ちを保っていた。
瀬立「体育の授業で頭を打ったあとは、そのまま担架で運ばれ、即入院。その後、リハビリを始めることになって、まず起き上がることからスタートしたんです。でも、ぜんぜん起き上がれない。めまいもするし、1カ月くらいは病院のベッドでずっと寝たきりでした。お風呂に行くときもベッドごと運ばれて、それも週に1度とか」
松岡「手術はしなかったんですか」
瀬立「手術はしないで、ずっと安静の状態でした。このままどうなっちゃうんだろうと思いながら1カ月が過ぎた頃、病院の先生に『学校に戻るときには車椅子になるかもしれないよ』って告げられたんです。
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不思議なんですけど、その時思ったのは将来のことではなくて通学のことでした。
電車通学だったんですけど、いつも満員なんですよ。満員電車に車椅子はどうやって入っていけば良いんだろうって、そういう現実的な不安が押し寄せてきました」
松岡「それがモニカマインドなのかな……。普通ならお先真っ暗とか、この先の人生について、不安だったり、さまざま考えますよ。そういう捉え方はしなかったんですか」
瀬立「目前に迫っていた東京国体に出られないことに関してはけっこう落ち込んだんですけど、看護師さんや主治医の先生に励ましてもらって。それがけっこう大きかったのかな。いま思うと、あの頃の自分は、車椅子生活になることをどこか他人事のように捉えていたのかもしれません。現実を受け入れないことで、自分の気持ちをギリギリ保とうとしていたのかなって」
松岡「当時はなぜ自分事として考えられなかったんでしょう」
瀬立「病院の中ってすごく守られているんです。看護師さんがいて、ヘルパーさんがいて、何かあったらすぐ駆けつけてくれる。寝ていても食事が出てくるし、おやつだって食べられる。でも、実際に大変なのは社会に出てから。私は4カ月ちょっと入院していて、半年くらいして学校に戻ったんですけど、そのとき初めて社会から取り残されたような疎外感に直面しました」
松岡「具体的にはどういうことですか」
瀬立「私はこの4カ月で人生が激変したのに、私以外は何も変わっていなかった。でも、みんなは4カ月分学生生活を送っているから、勉強は当然進んでいて。先生の話している言葉は日本語なのって思うくらい、数学や英語も何もわからなくて。それにもショックを受けました」