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小笠原満男はいつも正直だった。
悔しさを胸に戦い続けた男の引退。
text by
寺野典子Noriko Terano
photograph byGetty Images
posted2019/01/08 11:30
2018年、クラブW杯のトレーニング中に笑顔を見せた小笠原満男。鹿島を、Jリーグを文字通り牽引した選手だった。
ゴールよりもPK失敗の記憶。
そして、引退会見ではお馴染みの「記憶に残るゴールは?」という質問に対する答えが、まさに小笠原の本質を表現していた。
「ゴールではないのですが、ナビスコカップ決勝のPK戦で僕がキーパーに止められ、失ったタイトルの印象が強く残っている。自分のインサイドキックのミスで負けてしまい、いろんな人の想いやいろんなことすべてが変わってしまった。ジーコからずっと、『PK戦は運ではなく、120分、90分間戦い抜いて、ボロボロの足の状態でも狙ったところに強いボールを蹴らなくちゃいけない。だから、練習でのインサイドキック1本でも真剣に蹴らなくちゃいけない』とずっと言われていた。それを身をもって感じました。
練習から意識してやっていかなくちゃいけないし、クラブW杯でも思ったんですけど、止めて蹴るというのは、すごく大事だし、その精度をあげていかなくちゃいけない。なんとなくやった“止めて蹴る”と、高い意識でやるのとでは、だいぶ差がついてくると思うので」
1999年のナビスコカップ決勝の柏戦でのPK戦。最後のキッカーだった小笠原のキックが止められて敗れた。その悔いをずっと背負い戦ってきたのだろう。
W杯予選での決勝ゴールも……。
そして、ジーコジャパンを救ったとも言われるワールドカップドイツ大会アジア最終予選バーレーン戦での決勝弾についても「あれは小野伸二のゴール」と言い切った。
「思い出深いゴールではありますけど、ずっとレギュラーだった伸二が直前に怪我をしての出場だった。自分としては複雑な想いがありました。伸二はいつか追いつき、追い越したいと思い続けてきた選手。その選手の怪我で代わりに出るというのは、思うところはあるんですけど、伸二は『ミツ、頑張れよ』と言ってくれた。悔しかったと思うんですけど。だからあれは、本来なら伸二が決めるゴールだったと思う。小野伸二の魂が宿りました。それだけ伸二には思い入れがあるので、頑張ってほしいですね」
ゴールデンエイジと言われる1979年生まれの小笠原。1995年のU-17世界選手権メンバーでもあったが、彼の前には常に小野をはじめ、稲本潤一や酒井友之、そして中田浩二、本山雅志などのライバルたちがいた。
1999年ワールドユース(現U-20W杯)の準優勝メンバーではあるけれど、2000年のシドニー五輪はメンバー外だった。日本代表でも中田英寿や中村俊輔など、ライバルをあげればキリがない。
「彼らに負けられないという想いでやってきたので、彼ら、ライバルの存在が僕のモチベーションでした。そういう人達から、学ぶこともいっぱいあった。同期の曽ヶ端、本山、中田浩二や他クラブなら伸二や稲本の存在は大きいし、そういう人と一緒にやれたのは幸せなことでした」