マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
2番に最強バッターを置くことへの
抵抗感と高揚感を歴史から考える。
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byHideki Sugiyama
posted2018/12/12 08:00
先制点が大事、とは野球界で何度も言われる。ならば最強打者をなるべく早い打順に置く手は一理ある。
個人的に気になるのは……。
個人的にちょっと気になるのは、打席に迎えた「2番打者」が独身か、所帯持ちか……私がキャッチャーだったら、そこがちょっと気になる。
イヤなのは、「ひとりもの」だ。
多くの例外を無視して言えば、ひとりものは無茶をする。「そこを打つのか!」。そんなボールを強引に引っぱたいて長打にされてはたまらない。無茶な選手のやることは“想定”を立てにくいからだ。
そこへいくと家族がいる選手というのは、大なり小なり“守り”に入っていることが多い。
ヤマを張って、そこへ体当たりで猛然と踏み込んでいく。そんな思い切りは減るものだ。だから、攻め方に“傾向”を作れて、戦いの想像がつきやすい。
打席に入ってきた打者の顔を見て、「あれっ、こいつんとこ、確かこないだ1人目が生まれたよな……」なんて思い出したら、まず体の近くにしゃがめばよい。但し、用心深く。そのことは厳に投手に伝える必要がある。
100年続けてきたことを変える。
100年も続けてきたことを変えていくのは、なかなかに時間がかかる。
それも、「自己犠牲の2番打者」から「最強打者を2番に」。真逆の変革なら、なおさらのことだ。
本来、バッティングという技術がそんなにアテにならないものだとすれば、「最強打者」だって、あくまでもアテにならない中での最強というだけのことかもしれない。
そりゃあ、さんざん痛い目にも遭うことだろう。頭を抱えて天を仰ぐ……そんな場面にもいく度も遭遇することだろう。
しかし、今回この文章をずっと書き進めてきて、私は今、「チーム最強打者」を2番に据えた打線で指揮をとってみたい……と、叶わぬ夢に妙にときめいているのは、どうしたわけだろうか。