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俊足、華麗でなくてもJ2で250試合。
岐阜・田森大己を支える大木イズム。
text by
渡辺功Isao Watanabe
photograph byJ.LEAGUE
posted2018/11/24 10:00
甲府に始まり岐阜で到達した250試合出場。田森大己のような存在がいるから、J2は滋味にあふれる。
「1年目は集中砲火(苦笑)」
じつはこの両者は、奇妙な縁のある間柄。'07年限りで大木が甲府の監督を退任、田森のほうは'08年オフに甲府を戦力外となり、愛媛FCへと移籍する。日本代表コーチとして南アフリカW杯を経験した大木が、'11年に京都の監督に就くと、2年後の'13年に田森が京都に完全移籍。6年ぶりに再会する。
さらには'13年シーズン限りで大木監督が、'15年限りで田森が、それぞれ京都を退団。'16年から田森が岐阜でプレーを始めると、今度は翌'17年に大木が岐阜の監督に就任と、付いては離れ、離れては付き。田森のルーキーイヤーから現在にいたるまで、3チームに渡って監督と選手の関係にあるのだ。
「1年目なんか、メッチャ怒られましたよ。自分ともうひとり、新人がふたりしかいなかったから。ほとんど集中砲火(苦笑)。接触プレーで倒れては怒られ、痛がりながらプレーしては怒られ。何をやっても怒られていました。あとは攻守の切り換えの速さ。そこはずっと言われていましたね」
「派手さがないので分かりづらいですけど、かなり技術が高い。状況が見れる。状況を見たなかで、自分の技術を発揮することができる選手で、理解力も高い。そういった部分は若い頃から変わっていないですね。若い頃といまの田森で、変わったところですか? 怒られないようになりました。そこは変わりました(笑)」(大木監督)
スピードがないのにSB起用。
プロ1年目は公式戦の出場なく終わったのだが、当時大木監督はシーズン前のキャンプが始まってすぐの練習試合から、「生まれて初めて」(田森)となるサイドバックで起用した。翌年のデビュー戦となった3月の浦和レッズ戦も、左サイドバックでの先発だった。
田森の言葉を借りると「俺みたいなスピードのない選手をサイドバックで使おうなんて考える監督は、大木さんぐらいなもんですよ」とのことだが、間違いなくプレーの幅は広がったはず。守備的なポジションであれば、どこでも起用を検討できるユーティリティ性も、長く現役生活を続けられている一因だろう。