ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
わずか2年8カ月で歴史を変えた男。
輪島大士はプロレス界の触媒だった。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2018/10/16 16:30
1988年にプロレスを引退した後は、バラエティ番組でも人気を博した。輪島大士はどこでも輪島だった。
1980年代以降でプロレス最高の視聴率。
そして迎えた'86年11月1日の日本デビュー戦。輪島は故郷である石川県の七尾市総合スポーツセンターで、稀代の悪役レスラー、タイガー・ジェット・シンと対戦した。会場は超満員に膨れ上がり、NHKを含むテレビ5局、150人もの取材陣が殺到。
試合はわずか5分55秒、両者反則で終わったが、不恰好ながら闘志を前面に出す輪島の闘いぶりは上々の評価を得た。そして土曜日の午後7時から生放送されたテレビの視聴率は、23.7%(ニールセン調べ)もの高い数値を記録した。
これは'80年代後半から現在に至るまで、プロレス中継における最高視聴率。輪島のスキャンダラスパワーは、見事に日本テレビの期待に応えたのだ。
長州が、天龍が、前田が反応した。
そして、この“輪島フィーバー”は、プロレス界全体へ連鎖的にさまざまな影響を与えることとなる。
まず、この前年からジャパンプロレスを率いて全日本プロレスに参戦していた長州力が、プロレスでは新人にすぎない輪島が主役扱いされることに不満を抱き、'87年3月に全日本を離脱。スーパー・ストロング・マシン、小林邦昭、馳浩、佐々木健介らを連れて、古巣の新日本プロレスにカムバックした。
この長州離脱を受け、行動を起こしたのが天龍源一郎だ。天龍は、長州軍が去り話題性を失った全日本を活性化させるべく、盟友の阿修羅・原とともに、ジャンボ鶴田と輪島にケンカを売った。俗にいう天龍革命だ。
天龍は、大相撲時代に雲の上の存在だった横綱の顔面を容赦なく蹴り上げるなど、厳しい攻めを連発。その過激な試合は、ファンに衝撃を与えるだけでなく、同業者であるプロレスラーたちにも影響を与える。
当時、新日本プロレスに上がっていた前田日明は、「あんなシビアな闘いをやられたら、俺たちUWFの存在意義が薄れる」と危機感を抱き、それが長州力への顔面蹴撃事件へとつながったのだ。
輪島のプロレス入りがきっかけで起きた、この一連の流れは、のちのプロレス界を大きく変えることとなった。