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わずか2年8カ月で歴史を変えた男。
輪島大士はプロレス界の触媒だった。

posted2018/10/16 16:30

 
わずか2年8カ月で歴史を変えた男。輪島大士はプロレス界の触媒だった。<Number Web> photograph by AFLO

1988年にプロレスを引退した後は、バラエティ番組でも人気を博した。輪島大士はどこでも輪島だった。

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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 元横綱、輪島大士さんが10月8日に亡くなった。享年70。

 大相撲で14回の幕内優勝を誇り、1970年代に北の湖とともに「輪湖時代」を築いた大横綱。引退後は、1986年に全日本プロレスに入団し、プロレスラーとしても世間を賑わせたが、「輪島死去」を伝えるメディアの報道では、プロレスラー時代についてはほとんど触れられず。触れたとしてもやや否定的なものが目立った。

 たしかに、輪島さんのプロレスラー生活はわずか2年8カ月。チャンピオンベルトを巻くことはなく、年間最高試合のような賞とも無縁だった。

 しかし、輪島大士という存在が、あの当時とその後のプロレス界に多大なる影響を与えたこともまた事実だ。そんな輪島の“功績”をここでは振り返ってみたい。

 輪島大士は、“プロレスの歴史を変えた男”でもあったのだ。

 輪島は1986年6月、プロレス転向を発表。

 当時の輪島といえば、歴史に残る大横綱であると同時に、多額の借金問題を抱え親方を廃業するなど、極めてスキャンダラスな存在だった。その輪島が裸一貫プロレスラーとしてやり直すというニュースは、最高のワイドショーネタであり、世間の野次馬的な注目を多く集めたが、相撲の現役を離れて5年、38歳でのプロレス転向は「無謀」という声も多く聞かれた。

 それでもジャイアント馬場率いる全日本プロレスが、日本テレビの後押しもあって輪島を受け入れたのは、この前年、ゴールデンタイムに復帰したものの思うような視聴率を獲得できていなかった『全日本プロレス中継』のテコ入れのためでもあった。

番組の命運は輪島に託された。

 輪島の日本デビューは'86年11月に決定。わずか5カ月という短い準備期間だったのは、話題性を重視したためだろう。

 馬場は限られた時間の中で輪島をプロレスラーに生まれ変わらせるため、最大限の教育をほどこす。すぐに輪島をアメリカに連れていき、元NWA世界王者のパット・オコーナー、ネルソン・ロイヤルをコーチにつけて集中トレーニングを受けさせ、日本デビュー戦の“予行演習”的に、現地で実戦を7戦積ませた。

 そして日本テレビも『全日本プロレス中継』の番組内で、輪島のアメリカ修行の様子を毎週のように紹介。番組の命運を、輪島に託したのだ。

【次ページ】 1980年代以降でプロレス最高の視聴率。

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