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J3降格危機の新潟に現れた救世主。
梶山陽平はピッチ内外で“つなぐ”。
text by
塚越始Hajime Tsukakoshi
photograph byJ.LEAGUE
posted2018/08/29 11:00
新潟が梶山陽平を獲得した理由は「流れを変えるため」だという。だとすれば、彼以上の適任はいないかもしれない。
東京ガスのスクールに順番待ちで入った。
生まれ育った、江戸の下町風情が残る東京都江東区の自宅の近くに、FC東京の前身で当時JFL所属だった東京ガスの練習場があった。小学5年のとき、そこでの週1回のスクールに参加するようになる。サッカーのレベルにあまり関係なく受講可能だったため人気があり、「順番待ちをして、やっと入ることができた」と言う。
東京ガスの試合も観戦した。サイドをダイナミックに駆け上がる藤山竜仁にひと目ぼれした。ただ、日本人選手の中で本当に好きだったのは、華々しいスポットライトを浴びていたカズだった。
もっとも東京ヴェルディは「絶対に負けてはいけない相手」とスクール時代から刷り込まれ、緑のユニフォームを着たいと思ったことは一度もない。
世代別で何度も飛び級し、将来を嘱望された。
週1回のスクールの練習で目立った選手が、土曜日の選抜チームの練習に呼ばれるようになる。梶山はそこからFC東京のジュニアユース、ユースへ昇格を果たしていった。ただ当時はなかなかヴェルディの下部組織のチームに勝てず、“1失点ダッシュ10本”と課された罰走に戦々恐々としていたそうだ。
彼と同い年で、最も脚光を浴びたのが「怪物」平山相太だった。平山ほどの注目を浴びたわけではないが、梶山も2003年のワールドユース(現・U-20W杯)UAE大会を目指す1つ上の世代のU-20日本代表に三度、“飛び級”で招集されていた。
持ち味は抜群のキープ力。その懐にボールが収まると、まず誰も奪えない。だから誰もが信頼し、彼にパスを送る。チームの心臓部で、職人的な男は寡黙にチームを支える。そこが起点となり、攻撃がスタートした。
日本を背負うような存在になれるはず――。将来を有望視された彼を苦しめたのが怪我だった。デビュー当時からこれまで15年間、両膝の痛みと格闘を続けてきた。