JリーグPRESSBACK NUMBER
J3降格危機の新潟に現れた救世主。
梶山陽平はピッチ内外で“つなぐ”。
posted2018/08/29 11:00
text by
塚越始Hajime Tsukakoshi
photograph by
J.LEAGUE
間もなくアルビレックス新潟のチームバスが出発しようとしていたとき、梶山陽平がNACK5スタジアムのロッカールームから出てきた。その右ヒザには、透明のテープで氷がしっかりと巻かれていた。
「久々に90分プレーできました。ここからです。コンディションもプレーの質も上がっていくはずですから」
J2リーグ29節の大宮アルディージャ戦、チームは5連敗目を喫し、新天地で初めて先発フル出場を果たした梶山は納得などしていなかった。ただ、何が新潟の課題で、どうすべきか、その90分間で全体像を把握したようだった。
「ビルドアップの時には、最終ラインのパス回しなど、もう少し簡単にボールを素早く動かすことをやっていかないと。サイドバックがフリーでボールを持っても、パスコースがなくなっている。早くパス交換していけば、スペースが空いてきます。そのボールを動かすスピードは修正点。
ただ、ビルドアップの課題はそれぐらい。渡邉(新太)とかいいタイミングで入ってきていたので、そこを使ってサイドを使うことをシンプルにしていきたいです」
FC東京の一時代を築いた梶山。
この夏、FC東京から新潟へ半年間の期限付きで移籍してきた。梶山はプロ15年目のシーズンを迎える32歳だ。
FC東京のユース昇格組で、初めてレギュラーに定着した選手だった。高校3年生だった2種登録のときから頭角を現し(J1とカップ戦で6試合に出場している)、プロ2年目の2005年からボランチのポジションを掴む。2004年のナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)優勝をはじめ主要タイトルの獲得に貢献してきた、自身の成長とともにFC東京をタイトルが狙えるレベルに押し上げていった。クラブの一時代の象徴と言える選手だ。
彼が中心選手として中盤を務めてきた北京五輪代表の反町康治監督(現・松本山雅FC)からは、「この世代で最もA代表に近い選手だった」と言わしめたほどの実力者でもあった。ただ、何度か可能性が浮上したものの、結局、フル代表に招集されることはなかった。そのキャリアには運と不運が錯綜してきた。