“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
元鹿島・鈴木修人が大学で名監督に。
就任2年目にして番狂わせを連発。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2018/08/06 08:00
高校、大学、そしてJリーグと名門チームに所属し続けた鈴木修人監督。まだ32歳、指導者としての伸び代は大きそうだ。
30歳目前で選手から大学指導者へ。
「プロサッカー選手には一切未練はありませんでした。2013年に北九州に移籍したときに、年齢的にも最後のチャンスと思ってましたし、妻にもそう伝えていました。『ここ(北九州)で契約更新が告げられなかったらプロを辞めて、新たな道を進もう』と決めていました。その次の道が指導者でした」
30歳を目前に控えたタイミングで、彼はスパッとスパイクを脱ぐ決断を下した。戦力外通告を受けると、すぐに茶色だった髪の毛を黒に戻し、就職活動を始めた。
そして、新天地として求めたのは大学の指導者だった。
大学サッカーで指導したかった理由。
自身のキャリアを振り返りつつ、その決意に至った経緯をこう話す。
「市船のときも『大学を出て先生になりたい』と思っていました。高3の時にプロからのお誘いも頂けそうな状況でしたが、早い段階で早大進学を決めて、サッカーをしながら教員免許を取ることにしました。プロになってからも『引退後は高校、大学の指導者をやりたい』とずっと思っていて、いざ引退を決めると『大学サッカーで指導をしたい』と思うようになりました。
なぜなら大学は高校よりもいろんな誘惑がある。その中でやらなければいけないことを、メリハリを持って取り組んで、オフにして良いところ、オンにしないといけないところを自分で考えながら自立していく。その過程は凄く教え甲斐があるなと思ったからです。僕自身、大学生活を通じてサッカー選手として、人間としても成長できました。大学は『最後の自立の場』だと思っていて、この4年間で自立しないと、大学以降の社会は待ってくれない。
もちろんサッカーだけを考えたら、日本代表でも高卒でプロに飛び込んだ選手が大半を占めていますし、その方が近道だと思います。ただ大学の存在価値も高まっているからこそ、4年間で何をしたいのかを明確にしながら、サッカーに取り組む手助けができたらと思い、お話を頂いた明治学院大で新たな人生をスタートさせることを決めました」
ただ、ここに至るまでは苦難の連続だった。
コーチ1年目は、駿河台大学の教授を兼任していた大森一伸前監督に代わって、チームを託される形で学生と向き合った。それが実って念願の関東2部への昇格を果たすなど上々のスタートだった。