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大阪桐蔭、夏の甲子園初黒星。
二重の屈辱が名将・西谷浩一を生んだ。
text by
涌井健策(Number編集部)Kensaku Wakui
photograph byKyodo News
posted2018/08/03 18:15
大阪桐蔭の夏の甲子園初黒星は2002年、初戦の東邦戦。3-5で敗れた。
中村剛也、岩田稔を擁した代ですら。
「'91年に初優勝して以降、甲子園にいけなかったのは、警戒していた強豪校には勝てるのに伏兵に簡単に負けていたためですね。なんというか、夏の大会に向けてチーム全体の調整の仕方を間違っていたのかもしれません。反省することもあります。監督の交代も突然だったのですが、まあ学校の決めることだし仕方がないかな、という思いもありました」
コーチとして選手とともに寮に泊り込んでいた西谷は、監督になってからも選手との距離を縮め、指導に打ち込み、スカウトにも力を入れていった。その西谷が最も甲子園出場を期待したのが、2001年のチームだ。
プロ球界を代表する長距離砲に成長した「おかわり君」こと中村剛也が4番に座るチームは、大阪大会でも本命と目されていた。だが、決勝戦で上宮太子に敗れてしまう。
「あの代の投手には阪神におる岩田(稔)もおったし、西谷は相当ショックを受けていましたよ」(長澤)
「このチームで行けるのか」
さらに追い討ちをかけるように、2001年の秋に部内の暴力事案が発覚し、西谷はコーチへ降格。長澤が監督に復帰した。そして長澤によると「前年に比べればピッチャーも手薄で、攻撃力は明らかに落ちた」チームが、11年ぶりの甲子園切符を掴むことになったのだ。
「正直にいうと、このチームで行けるのか、と思いましたよ。大阪でも負けそうな試合がいくつもありましたから。巡りあわせでしょうかね。実は2001年のチームには中村の弟もいたんです。体格も筋力も兄に劣りましたが、運命というか、高校野球における“運”は弟のほうが持っておったのかもしれませんね」
甲子園に出場したそのチームの顔は、主将の西岡剛(現・阪神)だった。
「僕がスカウトしたんです。本人はPLに入りたがっていたのですが、誰よりも野球が好きで、気持ちが強かったのが気に入りましてね。入学したてのころは体力がなかったけど、徐々に体もできてきて、ランチタイム特打をやらせると喜んでバットを振っていたのを覚えています。ショートの岩下(知永)との二遊間は野手の中でも頭一つ抜けていて、ほとんどエラーがなかったんじゃないかな。
やんちゃなところもあって、言いたい放題だから周りから尊敬されるタイプではないけど、プレーでチームを引っ張るタイプでした」(長澤)