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大阪桐蔭、夏の甲子園初黒星。
二重の屈辱が名将・西谷浩一を生んだ。
posted2018/08/03 18:15
text by
涌井健策(Number編集部)Kensaku Wakui
photograph by
Kyodo News
100回目の甲子園で、二度目の春夏連覇を狙う大阪桐蔭。
激戦区の大阪にあり、今年の準決勝でも激闘を繰り広げた履正社というライバルが存在しながら、この7年間、14回のチャンスで11回目の甲子園出場を果たしている。そして春3回、夏2回、合計5回の優勝。圧倒的なまでの戦績だ。
そんな「平成の常勝軍団」がどうしてここまでの強さを獲得したのか。Number958号では、知られざるターニングポイントを探るために、夏の甲子園における初黒星を取材した。
初出場初優勝から低迷期へ。
大阪桐蔭の初黒星は、2002年のことだ。だが、実はその前に夏の甲子園で「5勝」をあげている。
夏初出場の1991年、大阪桐蔭は大阪大会を突破した勢いそのままに帝京や星稜などの強豪を打ち破って勝ち進む。そして決勝では沖縄の夢を背負った大野倫を擁する沖縄水産を破って頂点にのぼりつめたのだ。初出場初優勝の快挙は、大阪に新たな強豪が誕生したことを世間に知らしめるに十分だった。
だが、そこからはしばらく低迷期に入ってしまう。後にプロ入りするなどいい選手は集まってきたものの予選を突破できない時期が続き、1998年には創部直後からチームを指揮してきた長澤和雄から、1993年よりコーチを務めていた西谷浩一(現監督)へと監督が交代している。
長澤は我々の取材中、当時を振り返った。
「僕は社会人野球に育てられたという思いが強いんです。やらされるのではなく、自分でやらなければ、技術は身につかないと考えていました。だから自分を選手に置き換えて指導していた。放任ではありませんが、監督の仕事の基本は『見る』ことで、あとは選手たちに工夫させながら練習をしていた。また、何年計画と言ってメンバーから外す学年を造りたくなかったんです。かわいそうでしょう」
やさしいんですね、とこちらが声をかけると、顔をほころばせる。「ただね……」と長澤は苦い顔をした。