スポーツ・インテリジェンス原論BACK NUMBER
「甲子園は価値観を確認する儀礼」
想田和弘が語るスポーツの聖地性。
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byYuki Suenaga
posted2018/07/22 08:00
「観察」という言葉から連想される姿よりも、想田和弘監督自身は感情豊かだ。そうでなければ、人の無防備な姿を撮ることはできないのかもしれない。
スポーツの一体感には、副作用がある。
生島 ひとつの集団、チームにたくさんの人が一体感を覚える。アメリカの各地で、同じことが日常の一部として起きているわけですよね。ミシガンだけでなく、オハイオでも、アラバマでも、ルイジアナでも……。
想田 僕は大勢の人間が一体になることには、副作用がともなうと思うんです。というのも、一体化・集団化するということは全体主義への入り口であり、そこから排除される人も出てくるからです。アメリカでは人種、ジェンダー、いろいろな差別をなくす力が働いていますけど、スポーツに関してはリベラルな人たちも含めてその排他性に無防備です。
生島 排他的、というのはトランプ政権のキーワードでもありますね。
想田 そうなんです。だから『ザ・ビッグハウス』で観察された現象と、トランプの台頭とに関係がないようには思えない。ただし、世界というのはあまりに複雑すぎて、「良い」、「悪い」では判断しきれませんから、判断を提示せず、「良くも悪くもこういうもの」だということを示すのが観察映画のスタンスだと思っています。
一箇所に集まることは人類学的だ。
生島 観察しつつ、様々なことを感じられたでしょうね。
想田 僕自身は一体感というものには、ずいぶんと警戒心を持っていたはずなのに、「M」のウェアを着たり、応援歌を口ずさむようになったり、自分にもそういった部分があるんだな、というのは発見でした。同時に、集団へ自己同一化するということは、ある意味で自分が自分であることを捨てることだということも、かなり体感的に実感しました。
生島 どちらがいいとか悪いとか、そう単純な問題ではないですね。たしかに。
想田 今回、『ザ・ビッグハウス』を作って思ったのは、不特定多数の人が集まることの「意味」なんです。そこには人類学的な意味合いが含まれているな、と思って。
生島 興味深いです。具体的には、どんなことですか。
想田 人間は社会的な動物ですよね。他者なしでは生きられない。だからこそ、人類はその誕生とほぼ同時に「みんなと一箇所に集まって、自分が共同体の一部であることを確認する」という儀礼を始めたんだと思います。それはたぶん最初はお祭りとか演劇とか舞踊といった形態だったのでしょうが、時代が下って映画が生まれ、その延長線上にビッグハウスがあるんだと僕は感じたんですね。