サッカー日本代表 激闘日誌BACK NUMBER
<ドキュメント第1回キリンカップ>
「JAPAN CUP 1978」の衝撃 【後篇】
text by
加部究Kiwamu Kabe
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2018/05/28 10:00
当時の日本はどん底に喘いでいた。
一方ケルンと同じグループIに入った日本代表は、年明けからどん底に喘いでいた。3月には旧ソ連3部のクラブチーム、アムール・ブラゴベシチェンスク相手にまさかの1分け2敗。それでも欧州トップレベルと対戦できるとあって「世界との距離を測るバロメーターになる」(GK田口光久)と徐々にモチベーションを高めていた。
初戦の相手はコベントリー。後に名古屋グランパスを指揮することになるゴードン・ミルン監督に「もし日本が先制していたら敗れていた」と吐露させるほど立て続けにチャンスを演出した。しかし終了間際に決勝点を奪われ0-1で惜敗。続くタイ戦を3-0で快勝し、ケルン戦の勝利に準決勝進出への一縷の望みを繋いだ。
5月25日、奥寺を擁するケルンと日本代表の対戦に、国立には約3万人のファンが集まった。今ならむしろ空席が目立つ印象になるだろうが、前年の日本リーグでの1試合平均観客動員は1773人にまで落ち込んでいた。それを考えれば、3万人は紛れもなく大観衆だった。
ともにケルン合宿を経験し、ピッチ上で久しぶりの対面を果たした西野朗が、金田喜稔が、入れ替わり奥寺に冷やかしの声をかける。そんな光景を遠目に眺めながら、GK田口は「奥寺さんは変わったな」と感じていた。
「スピードはあるし、シュートの速さも晩年の釜本さんを上回っていた。能力的にはドイツへ行っても当然やれると思ってはいました。ただ優しすぎる性格が気になってはいた。それがプロになって風格が備わってきたように感じられました。もっともそれ以上に驚いたのが、当時5000万円近いと言われた年俸でしたけどね」
奥寺のマークを託された園部の奮闘。
この試合、日本代表側で一躍スポットライトを浴びたのが、奥寺のマークを託された園部勉である。小柄だが俊敏な弱冠20歳のSBは「ダイヤモンドサッカーで見ているチームとやるんだ」と気持ちを昂ぶらせながら、試合開始のホイッスルを聞く。「当たって砕けろ、という気持ちでしたね。急に変われと言われても変われるものではないですから。ただこれでうまくいけば、代表に定着できるという思いはありました」
勝たなければ準決勝へ進めない日本は、序盤から闘志を漲らせて攻勢に出た。サイドに展開し、永井、金田の仕掛けが冴える。スタンドから「ニッポン、チャチャチャ」の応援が出るようになったのも、この頃からだった。
36分、いいリズムで試合を進めてきた日本に痛恨のミスが出る。カウンターからケルンのシュトラックが抜け出しかけたのを見て、GK田口が前に出た。ところがシュトラックを追いかけた落合弘が後ろから突いてバックパス。ボールはコロコロと無人のゴールへと転がり込んでしまった。
前半はケルンが1点をリードして折り返した。