サッカー日本代表 激闘日誌BACK NUMBER
<ドキュメント第1回キリンカップ>
「JAPAN CUP 1978」の衝撃 【後篇】
text by
加部究Kiwamu Kabe
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2018/05/28 10:00
FWの切り札・碓井を後半から投入。
後半、早くも二宮監督が動く。「誰が考えてもFWの中では最も可能性があった選手」(二宮)だった碓井博行を送り込むのである。
「あとから出しても、おまえが主役だからな」
そう言って「頼むぞ」と肩を叩く。
資質に恵まれながらも、なかなか闘志が表に出てこない碓井を半分ベンチに座らせることで、二宮は発奮を促したのだ。その碓井が、後半6分、振り向きざまのミドルシュートを突き刺して期待に応える。
「ケルンには何度も合宿をさせてもらったので顔見知りの選手が多かった。それが気後れせずに善戦できた理由でしょうね」と二宮は分析する。逆にフローエ、ノイマン、ツィンマーマンと中盤のパサーを軒並み代表に取られてしまい、「使われる立場」の奥寺は、やり難さを隠し切れなかった。
駿足を飛ばして突破を図る奥寺には、園部がピタリと張り付いた。攻撃参加が好きな園部も、この試合では「あくまで守備に重点を置き、夢中で」抑えることに専念する。スコアは1-1のまま最後まで動かなかったが、日本代表は久々に手応えの残る好ゲームを見せるのだった。
一方ケルンと人気を二分するボルシアMGには、現地で指導者養成コースを受講中に3年間行動をともにした鈴木良平が帯同することになり、旧交を温めた。東南アジア遠征を経て来日したボルシアは、ケルンと別のグループに組み込まれたため静岡―広島―神戸と地方巡りが続き、さすがに選手たちからは愚痴もこぼれた。
「ケルンはいいよな。オクがいるから、ずっと東京だ」
勝ちたい気持ちに感じたプロ意識。
それでも試合が始まると、勝ちたい気持ちを前面に出して戦う選手たちを見て、鈴木は改めてプロだなと感心した。特に2戦目、広島での韓国戦では目の色が変わった。試合は韓国のエース、チャ・ボングンの独り舞台。ボルシアのハードなDFたちも散々手を焼き、辛うじて4-3で競り勝つ。チャも奥寺の後を追うように、次のシーズンからドイツ(ダルムシュタット)へ渡るのだった。
順調にグループリーグを突破したボルシアは赤坂プリンスホテルに宿舎を移すのだが、ロビーはいつもファンでごった返した。選手への電話は全て鈴木が受けたが、なかでもシモンセンの人気は群を抜いていた。
残念ながら、アジア勢はグループリーグで全滅。準決勝ではボルシアが2-1でケルンを、パルメイラスが1-0でコベントリーを下して、それぞれ決勝へと進む。ワールドカップに向けて、ケルンからは大量5人が代表に取られていたのに対し、ボルシアはフォクツ、ボンホフの2人だけ。「やはりその差は大きかった」と奥寺は臍を噛んだ。
かつて奥寺はパルメイラスへ短期留学したことがあり、それが飛躍の契機となった。クラブには顔見知りのスタッフ、選手がおり、“準古巣”と決勝戦を戦えれば申し分なかったのに……そう思うと悔恨が込み上げてきた。