サッカー日本代表 激闘日誌BACK NUMBER
<ドキュメント第1回キリンカップ>
「JAPAN CUP 1978」の衝撃 【後篇】
posted2018/05/28 10:00
text by
加部究Kiwamu Kabe
photograph by
PHOTO KISHIMOTO
日本サッカーを甦らせるには何をすべきなのか。「プロ」という言葉がようやく現実味を帯びてきた時代。キリンがサッカー日本代表を応援することを決意し、今日までの40年間応援し続けるきっかけにもなった、「ジャパンカップ」開催が意味するものを2回にわたって検証する。
「三菱ダイヤモンドサッカー」の放映が始まったのは、日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得する約半年前、'68年4月のことだった。実況金子勝彦、解説岡野俊一郎の名コンビでスタートした番組は、午後5時から10時まで何度か放送開始時間を変えながら、20年間で994回も続くことになる。
BBCの「マッチ・オブ・ザ・デイ」から権利を買い、当初はイングランドリーグが中心だったが、ジャパンカップが近づく頃には「世界最高峰」の評価を得ていたブンデスリーガを紹介する頻度も増えていた。金子の回想である。
「私はメキシコ五輪予選、3-3で盛り上がった国立での日韓戦の実況も担当しました。予選で期待感が高まったこともあり、当時、ファンの間にも国際的に目を開いていこうという気運があったと思います。
そんな時期に日本協会副会長の篠島秀雄(当事三菱化成社長)さんが、日本のテレビはプロ野球ばかり放送しているが、これからの国際化を考えると、もっと青少年たちに世界のスポーツ文化の象徴であるサッカーを浸透させるべきだと主張されたんです。サッカーの国際化を推進しよう、そのためには世界最高のものを放映するべきだと言われ、五輪予選を突破したという時代のうねりとも合致して番組はスタートしたわけです」
クライフvs.ベッケンバウアーの生中継。
初回放送の視聴率はビデオリサーチ社調べで約1.5%。だが「1%=約40万人」という数字は、積み重ねることで海外サッカーへの憧憬を着実に煽った。さらにテレビ東京は、'70年メキシコワールドカップを全試合録画放送し、4年後の西ドイツ大会では決勝を初めて生中継する。
こうして日本サッカー低迷の頃、ファンの海外志向は決定的になった。おそらく当時日本国内でペレ、ヨハン・クライフ、フランツ・ベッケンバウアーらの知名度は、どんなメジャーリーガーより高かったに違いない。
金子が続ける。
「海外サッカーを見る機会はそれしかなかったわけで、当時の少年たちはそれこそ海綿が水を吸うような感じだったと思います。'60年代には、広島の小学生から手紙をもらったことがあります。昨日、ダイヤモンドサッカーを見て、ジョージ・ベストのドリブルを練習しましたと。それを聞いた岡野さんは『それが凄いことだ。目から入るビジュアル・トレーニング、絶対に忘れないよ』と言うんです。
だから私は、視聴率より視聴“質”だとよく言うんです。三菱ダイヤモンドサッカーは、10年後のジャパンカップ、そして今日のキリンカップへと繋がる源流だったのではないでしょうか」