サッカー日本代表 激闘日誌BACK NUMBER
<ドキュメント第1回キリンカップ>
「JAPAN CUP 1978」の衝撃 【前篇】
text by
加部究Kiwamu Kabe
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2018/05/25 12:00
強豪を招いたトーナメントの必要性。
長かった現場での指導歴にピリオドを打ち、日本協会専務理事に就任した長沼健がビッグプランを口にしたのは、日本サッカーが真っ暗なトンネルに迷い込んでしまっている最中だった。
「我々はもっとアジアとの交流を深めていく必要がある。そのためにも、欧州や南米の強豪クラブを招き、アジア諸国の代表も加えたトーナメントが開けないだろうか」
'68年メキシコ五輪での銅メダル獲得で第一次ブームが到来したが、'70年代に入ると代表というひと握りのエリート集中強化方式の限界が露呈し始める。銅メダル組が高齢化すると後が続かず、それぞれ3つのワールドカップ、五輪予選で惨敗を繰り返すのだ。やがて「ジャパンカップ」と命名される大規模トーナメントの構想には、低迷が長期化するサッカー界の起爆剤に、との願いが込められていた。
評議会で討論を重ねた結果、日本から代表ともう1チーム、さらにアジアから2カ国の代表チームを参加させ、目玉として欧州と南米のプロチームを招聘するという枠組みが決まる。グループリーグを経てノックアウト方式というスタイルを採用した背景には、少しでも多くの試合をこなすことで、日本とアジア招待国の強化に繋げようという狙いがあった。
ちょうど日本が'79年ワールドユース選手権の開催に立候補をしていた時期である。一部から「強化のためにユース代表を参加させては」という意見も出たが、「プロのトップレベルのクラブを呼ぶのにそれでは失礼」との反論に跳ね返され、若手中心の日本選抜を出場させることに決まった。
興行ではなく強化に主眼を置くために。
総経費を試算すると、招待チームの航空、移動、滞在費だけでも約3億円。それに出場料が加算される。
「(日本サッカーが)右肩下がりの中、まさに清水の舞台から飛び降りるような思いだった」
長沼の命を受け、実現に向けて動いたサッカー協会事務局長(当時)の中野登美雄は述懐する。
各競技で次々に冠スポンサー大会が誕生して行くのは、まだ先の話である。スポーツ紙にジャパンカップが賞金大会になるという報道が出ると、アマチュア総本山の日本体育協会から早速クレームがついた。
そこでサッカー協会は、あくまで興行ではなく強化に主眼を置く大会であることを強調するために、賞金ではなく1試合ごとのギャランティー制を導入する。当時の欧州トップクラブの相場は1試合約3万ドル(当時1ドル=240円)。グループリーグ3試合で計9万ドルを保証したうえで、勝ち進めばさらに加算されるシステムだった。
協賛には、唯一キリンビールがついた。当事、岸記念体育館にあったサッカー協会は、山手線をはさんで向かい側に本社をかまえていたキリンビールに協賛を依頼。同社は「日本のサッカー文化を長い目で見て育てていこう」と決意し、現在まで日本サッカーを応援し続けている。
開催が決まると、海外クラブとの交渉等は全て中野に託された。中野は開催年の1月にアルゼンチンへ飛びFIFA理事会に出席し、その帰途南米から欧州を回り、関係者との会談を重ねた。
「FIFA理事会では、翌'79年に行われるワールドユース選手権の日本開催が決まりました。そのまま私はブラジルへ飛び、サンパウロに住む日立の駐在員の方と話したところ、パルメイラスを推薦されたんです。日本側としてはサントスかパルメイラスと考えていたし、パルメイラスの会長もぜひ行きたいとの反応で、すんなり決まりました。
それからロンドンへ移動し、ミドルセックス・ワンダラーズ(全英アマチュア選抜)の副会長も務めていたレスリー・テイラーさんと話しました。当時日本協会が欧州からクラブを呼ぶ時は、いつもテイラーさんを窓口にしていましたからね。テイラーさんからは、ドイツではケルンとボルシアMG、イングランドならコベントリーが良いのでは、と提案されました」