サッカー日本代表 激闘日誌BACK NUMBER
<ドキュメント第1回キリンカップ>
「JAPAN CUP 1978」の衝撃 【前篇】
posted2018/05/25 12:00
text by
加部究Kiwamu Kabe
photograph by
PHOTO KISHIMOTO
日本サッカーを甦らせるには何をすべきなのか。「プロ」という言葉がようやく現実味を帯びてきた時代。キリンがサッカー日本代表を応援することを決意し、今日までの40年間応援し続けるきっかけにもなった、「ジャパンカップ」開催が意味するものを2回にわたって検証する。
溜息が少しずつ静寂を破り、どよめきが生まれて来るまでだいぶ時間がかかった。ボルシア・メンヘングラードバッハ(以後ボルシアMG)のベンチに座った鈴木良平は、そう記憶している。
1978年5月29日、決勝戦が行われた国立競技場に足を運んだ約3万5000人のファンは、未知の領域とも言えるハイレベルのプレーに、暫くは固唾を呑んだまま見入るばかりだった。まだ4年前にワールドカップの決勝戦が初めて生中継されたばかりで、当時海外サッカーを見るには、週に1度、それも前後半に分割して放映される「三菱ダイヤモンドサッカー」(テレビ東京)に頼るしかなかった。
ビデオも普及していないから、ファンは土曜日の夕方午後6時を心待ちにして、テレビの前に座った。ブラウン管を通してしか触れられなかった憧れの世界とじかに遭遇し、どう反応していいのか戸惑っている――そんな感じの静寂だった。
先にどよめきを引き出したのは、ブラジルで20世紀最優秀クラブに選ばれるパルメイラスだった。個々が挑発的に仕掛けてはショートパスを繋ぎゲームを支配。14分、左ウィングのネイが快足を飛ばし、鋭く高速のボールを逆のポストへと振る。すると184cmの長身エスクリーニョが豪快にボレーで叩き、あっさりと均衡が破れた。一斉に感嘆の声が洩れ、やがて拍手となって広がった。
しかし当時世界最高水準を誇るブンデスリーガで4連覇を目指し、最終戦までケルンと覇を競ったボルシアMGも負けてはいない。いつものように奮闘するリベロのビットカンプのユニフォームは瞬く間に泥で汚れ、カウンター攻撃に転じるとバロンドール(欧州最優秀選手)を獲得したばかりの小さなシモンセンがタッチライン際を軽快なドリブルで進む。
そして26分、シモンセンと同じくデンマーク代表のニールセンがクロスを送ると、ボックス内でブラジル代表歴を持つベト・フスカオが痛恨のハンド。こうして獲得したPKをシモンセンが左隅に決めて、試合を振り出しに戻した。
延長戦を前にパルメイラスの主将が……。
パルメイラスの奔放な攻めを、ボルシアMGのDFたちが体を張って凌ぎ、元ドイツ代表のベテラン、ビンマーの力強いドリブルを軸に反撃に転じる。記念すべき第1回ジャパンカップの掉尾を飾るに相応しく、大陸を代表する名門クラブの矜持がぶつかり合う熱戦は、遂に延長戦へと突入した。
わずか1週間あまりで、ほぼ中1日で5試合。両チームともに疲弊し切っていた。実は延長戦に突入する前に、パルメイラスのマリーニョ・ペレス主将が、ボルシアベンチに交渉に来ている。
「もう十分だろう? このまま引き分けでどうだ」
しかしブンデスリーガで2度の得点王を獲得しているボルシアのハインケス主将は、それを毅然と遮る。レフェリーに促され、重い足どりでピッチに向かう選手の背中を、心躍らせるファンの大歓声が追いかけた――。