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“△地獄”の松本山雅が反撃態勢。
長友を見出した「反町△」の発掘力。
posted2018/04/21 17:00
text by
木本新也Shinya Kimoto
photograph by
J.LEAGUE
2018シーズン開幕とともに松本山雅が“△地獄”に陥った。横浜FCとの開幕戦をスコアレスドローで終えると、第2節のアルビレックス新潟戦は1-1。第6節のレノファ山口戦はロスタイムに2失点する悪夢のような展開で2-2の引き分けに終わった。
第9節終了時点で2勝5分け2敗の12位に低迷。全22チーム中で東京ヴェルディに次ぐ2番目にドローの数が多い。松本山雅を率いる反町康治監督と引き分けといえば、北京五輪に出場した反町ジャパンに密着した筆者の頭には、自ずと10年以上前の記憶が蘇る。
あの時は歓喜のドローだった。'07年11月21日、国立競技場。U-22日本代表は'08年北京五輪出場を懸けてサウジアラビアと対戦した。五輪切符獲得の条件は引き分け以上。反町監督は平山相太をベンチから外すなど、ホームでもなり振り構わず守備的な戦術を敷いた。
執念の采配が実り、結果は0-0。指揮官はスタジアムで約4万2000人の観衆に向かい「非常に苦しい予選でした。でも北京に行けます! これからもっと訓練して頑張りたい」と絶叫した。
横文字を使うことの多いインテリ監督から飛び出した「訓練」という言葉。日本協会関係者によると「なんで訓練って言ってしまったんだろう」と後悔の念を抱いていたというが、それほど、興奮していたのだろう。
引退試合では花束を渡すはずの夫人が……。
北京五輪アジア最終予選は4チームずつが3組に分かれ、各組1位だけが本大会出場権を獲得する難関だった。C組1位になった日本だが、2位カタールとの勝ち点差はわずかに1。五輪切符獲得までの険しい道のりは反町監督のサッカー人生にも重なる。
清水東高で全国制覇を経験しながら、一浪して一般入試で慶大に入学した。Jリーグ発足時は全日空の社員契約選手として横浜フリューゲルスに所属。「サラリーマンJリーガー」としてピッチ外ばかりで注目を集め「あれで、あまのじゃく(な性格)になったよ」と言う。
'94年に全日空を退社して、プロ契約でベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)へ移籍。'97年の引退セレモニーでは花束を渡す予定だった夫人が渋滞に巻き込まれて遅刻し、見知らぬ子供から花束を受け取った苦い思い出もある。