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就任3年目でVリーグファイナルに。
吉原知子監督の厳しさでJTが変貌! 

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田中夕子

田中夕子Yuko Tanaka

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photograph byYUTAKA/AFLO SPORT

posted2018/03/20 10:30

就任3年目でVリーグファイナルに。吉原知子監督の厳しさでJTが変貌!<Number Web> photograph by YUTAKA/AFLO SPORT

2015年6月に監督就任後、V・チャレンジリーグIで優勝し、V・プレミアリーグに昇格。昨季は4位、今季は2位と着実に力を付けている。

メグカナ時代の主将が'15年に現場復帰。

 現役時代は日立、ダイエー、パイオニアやイタリア・セリエAでもプレーし、1996年のアトランタ五輪に出場した。その後、全日本女子は2000年のシドニー五輪を逃がし、2002年の世界選手権も13位と惨敗。2003年から柳本晶一監督のもと、10代の栗原恵や大山加奈らを中心としてメンバーも変わり、新たなチームへと変革を遂げた。その中で7シーズンぶりに代表復帰を果たし、主将を務めたのが吉原だ。

 目標ではなく必ず果たすべき使命であった五輪出場に向け、吉原は周囲にも、そしてそれ以上に自らに厳しく、妥協せずバレーボールに全身全霊で取り組んだ。その背中を見て、若いチームは2004年のアテネ五輪に出場。そして、吉原は2006年に現役を引退した。

 以後、国際大会や国内大会が開催されるたび、解説者やリポーターとしてバレーボールに携わってきたが、最初からその延長に指導者という選択肢があったわけではない。

「目の前にあるけれど一番遠い場所だった」という現場復帰を果たしたのは2015年。当時はV・チャレンジリーグだったJTの監督に就任した。

 何が求められていたかは明確だった。目標としていた1年でのV・プレミアリーグ復帰を逃がしたチームに、再び自信を取り戻させてほしい。

 就任直後にスタッフ、選手1人1人と長い時間をかけて話し合う時間を設けると、「最初はビビっていた」という選手たちから、堰を切ったように思いがあふれ出す。そんな姿を見て吉原が感じたのは、「もっとできる」という可能性があるにもかかわらず、一歩踏み出すまでに至らない、根本にはびこる甘さだった。

“何となくできればOK”を許さない。

 今までよりも上を目指すならば、今までと同じ意識ではダメ。

 就任直後から妥協を許さぬ吉原の姿勢にチームの空気は一変した。

 練習も“何となくできればOK”ではなく、掲げた課題がクリアできるまで何時間かかっても終わらない。それもただやみくもにやるだけでなく、その都度なぜ今、この練習に取り組まなければならないのかを繰り返し説いた。

「最初は選手たちも『これだけ長くなったんだから、そろそろ終わってくれるだろう』と思っていたかもしれないけれど、できなければ終わらないと理解する。そこでもう1回クギを刺すんです。『やればいい、終わればいいじゃないでしょ。あなたたちは練習のための練習をやってるわけ?』って。最初は選手も本当に大変だったと思いますよ」

【次ページ】 疲れがピークの状態でのロングパス。

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