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山田直輝「自分が甘ちゃんだった」
浦和の愛に溺れた4年前と今は違う。
text by
轡田哲朗Tetsuro Kutsuwada
photograph byJ.LEAGUE PHOTOS
posted2018/01/13 08:00
山田直輝を語るのに、もはや「才能」という言葉では足りない。浦和のサポーターが目を丸くするシーンが早く見たいものだ。
浦和在籍時には、どこか甘かったと言わざるをえない。
それだけに、山田の起用法はその時々の監督に対する批判の種になってきた。トップ昇格時のフォルカー・フィンケ監督が積極的に若手を起用する方針だったことは、山田を筆頭に若いメンバーたちの背中を押した。
しかしフィンケが去った後、負傷を別にしても、山田自身が常に試合出場に値する存在だったかは別の問題だ。
例えば1つ、私は彼について「それで良いのだろうか」と思った経験があった。
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山田が前回浦和に在籍した最後のシーズンになった2014年は、ワールドカップイヤーだった。山田はシーズン前半戦で出場機会に恵まれなかったにもかかわらず、中断期間のキャンプに、主力選手と同じように体を休ませてから臨んできた。
当時の状況からすれば、そのキャンプは後半戦に向けて必死のアピールが必要な場であり、抜きんでたプレーを見せるべきタイミングだった。
特別待遇が許される立場でなかったことは、出場機会の少ないメンバーを中心で行われたキャンプ中の練習試合の際に明らかになる。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督(当時)が「試合に出ている選手より良いプレーをしないのなら、メンバーは変わらないんだぞ」と、報道陣に聞こえるほどの怒声を発したのだ。
そして指揮官の言葉は現実のものとなり、山田は1年間を通してピッチに立つことがほとんどないままシーズンを終えてしまった。
湘南での3年間で、「やっとプロのサッカー選手」に。
なぜこんなことを思い出したのかといえば、入団会見で山田が「甘ちゃん」という言葉に加え、「当時は100パーセントでサッカーに向き合っていたつもりでしたけど、それが100パーセントじゃなかったというのを今になって気づいた」と、前回浦和に在籍していた時の自分に言及したからだ。
「湘南の3年間で一番学んだのは、チームを勝たせる責任を負ってプレーさせてもらって、勝ちに対する貪欲さを持ってチームを引っ張ること。やっとプロのサッカー選手として勝つためにサッカーができるようになったので、そこを見てもらえたら。
していいプレー、してはいけないプレー、ミスではないけどチームにとってマイナスのプレーがあるとか、そういう目に見えない部分をすごく曹(貴裁)さんは教えてくれる監督だった。これはミスじゃないけど、俺にとってミスだと。
(浦和では)それに気づいていなかったですし、上の選手たちがたくさんいて、自分はまだ若手という感覚もあって、チームを引っ張るとかそういうことは考えずにプレーしていた。今になってみると、上の選手たちはこういう責任を負ってプレーしていたんだと、申し訳なかったなという気持ちもあります。寡黙な先輩たちでもあったので、なかなか言葉で表現してくれなかったですけどね」