ボクシング拳坤一擲BACK NUMBER
名門ヨネクラジムに近づく閉鎖の時。
最後の後楽園、そして37人目の王者。
text by
渋谷淳Jun Shibuya
photograph byBOXING BEAT
posted2017/07/24 07:00
WBCスーパーフライ級で世界王者になった川島郭志と米倉健司会長。日本ボクシング界の1つの時代が終わるのだ。
「ヨネクラじゃなかったら世界王者になれなかった」
いつもひょうひょうとして、来る者を拒まず、去る者を追わず、という花形会長の器の大きさが大橋会長の人生を決定づけた。
「たぶん花形ジムに入っていたら、地元の横浜だし、遊んじゃったと思いますよ。花形会長は厳しくないし(笑)。それが急きょヨネクラに入って、会長の自宅のそばの寮に住んで、すべて管理された。練習はきつくて、最初はついていけなかったほどです。ほんと、ヨネクラじゃなかったら世界チャンピオンになれなかったと思いますね」
大橋会長はこう振り返った。彼が現役時代を過ごした世田谷区中町の寮には、現在もヨネクラジムのボクサーが住んでいる。フェザー級の23歳、長野県上田市出身の溜田剛士だ。中学を卒業と同時に上京、2009年にヨネクラジムに入門した。父親が高校時代、ヨネクラで東洋太平洋王者までなった西澤ヨシノリの後輩だったという縁があった。
「中学卒業前に体験練習をさせてもらいましたけど、名門とかは全然分かってなくて(笑)。つないでくれた西澤さんは『他のジムがいいなら、よそも紹介するぞ』と言ってくれたんですけど、ジムの雰囲気とか、ニコニコしながら『強くなるぞ』っていう米倉会長の人柄がなんかよかったんですよね。よそは見ないでヨネクラに決めました」
木造2階建ての“道場”に15歳から通い続けた溜田。
JR山手線目白駅から徒歩で5分ほど。線路沿いに建つ木造2階建てのジムは、8年前でも既に古めかしく、ジムというより“道場”という表現がピタリとくる。あまたの若者たちが流した汗と血で変色した板張りの床を、長野をあとにした15歳の少年も踏みしめることになったのだ。
溜田が入門したころ、ヨネクラは既に斜陽の時期に差し掛かっていた。ジムにはチャンピオンが1人もいなかった。少子化やボクシング人気低迷の影響もあり、選手やトレーナーは年々減っていった。
そんな状況にあって、ホープとして期待された溜田は持ち前の強打を武器にデビューから5年で16戦13勝(11KO)1敗2分という戦績を残す。一時は日本タイトル挑戦も視野に入ったが、昨年は自身初の連敗を経験。1度は手にした日本ランキングも手放した。