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名門ヨネクラジムに近づく閉鎖の時。
最後の後楽園、そして37人目の王者。 

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渋谷淳

渋谷淳Jun Shibuya

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posted2017/07/24 07:00

名門ヨネクラジムに近づく閉鎖の時。最後の後楽園、そして37人目の王者。<Number Web> photograph by BOXING BEAT

WBCスーパーフライ級で世界王者になった川島郭志と米倉健司会長。日本ボクシング界の1つの時代が終わるのだ。

現役時代から大橋氏はジム経営者の帝王学を学んだ。

 そんなボクシング界の若きリーダーとも言える大橋会長は、ジム経営者としてのすべてを米倉会長から学んだと話す。

「自分は現役時代から米倉会長にボクシングの技術以外のこと、ファイトマネーの話やスポンサーとの付き合い方、細かいことまで本当にたくさんのことを教わりました。おそらく米倉会長は自分が将来、ジム経営者になることを予測していたんでしょう。だから普通なら選手に教えないようなことも教えてくれたんだと思います」

 大橋会長は選手のセコンドに入ると、インターバルで最上段のロープにアゴとヒジを乗せ、相手選手にちらちらと視線を送りながら、選手にアドバイスをささやく。「キミのことは全部お見通しなんだよ」と相手を威圧する姿は、米倉会長と瓜二つだ。大橋会長によれば、真似しようという意識はまったくなく、自然にそうなってしまうのだという。

1週間毎朝、米倉会長からスカウトの電話が……。

 そこまで米倉会長の影響を受けた大橋会長が、ヨネクラジムに入門したいきさつが面白い。

「実は花形ジムからプロ入りすることが決まっていたんです。そこに米倉会長からスカウトの電話がかかってきた。1週間毎朝です。もう花形ジムに決まった話ですから、最初は断ることになったんだけど……」

 当時、元世界王者の花形進会長は新たなジムを立ち上げようとしていた。新生・花形ジムの目玉となるのが横浜高でインターハイを制し、専修大でロサンゼルス五輪出場を惜しくも逃し、大学を中退してプロ入りを決意した大橋会長だった。

 ところが、である。

「花形会長が、お前の将来を考えたら、ヨネクラジムのほうがいいんじゃないかって言いだすんですよ。オレはジムをやるの初めてだし、よく分からないからって。いや、いまさらそう言われてもと思いましたけど(笑)。慌てて米倉会長に会って、ヨネクラ入りが決まったんです」

【次ページ】 「ヨネクラじゃなかったら世界王者になれなかった」

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