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柏原竜二、27歳での引退に思うこと。
彼が箱根を走った4年間を忘れない。
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byShigeki Yamamoto
posted2017/04/09 11:30
柏原竜二が山を走った4年間が、箱根駅伝の人気を一段引きあげたのは紛れも無い事実だ。
感情をストレートに表現するスタイルにファンが急増。
この劇的な走りを皮切りに、東洋大は柏原を擁して2009年、2010年、2012年と彼の在学中に3度の優勝を達成する。
柏原のランナーとしてのキャラクターは抜群で、抜くときに相手を射るような視線を向けたり(これは相手の状態を確認するためのルーティーンであり、決して睨んでいたわけではない)、苦しくなると顔をゆがめたり、優勝インタビューで「やったぞ、田中!」と突如として同級生の名前を叫んだりと、感情をストレートに表現する柏原のスタイルは多くのファンを生んだ。
4年生の箱根では、人だかりで「柏原街道」ができた。
山の神の登場によって、箱根駅伝にも変化が訪れた。もともと平均視聴率25パーセント以上をたたき出す怪物番組だが、沿道での応援が過熱してきた。特に柏原のラストランとなった2012年の大会では、箱根山中が人、人、人という状態になった。報道車に乗ったカメラマンの述懐。
「もう、両側がびっしりだったよ! あれはまるで、『柏原街道』だ」
山の神の登場は、箱根駅伝の人気を一段階上へと押し上げたのである。
つまり、柏原竜二は箱根駅伝が生んだ「ポップスター」だったのだ。一般のファンへのアピール力があり、年に一度、全国の家庭ではおせち料理をつまみながら柏原の激走を見る、ということが「年中行事化」した。
彼の登場がなければ、その後に続く「青学フィーバー」も沸点が変わっていただろう。
柏原が大学を卒業する時、高橋尚子氏との対談が『Number Do』で組まれた。六本木で行われた対話の席の司会を私は務めたが、柏原は実業団に進んでからはマラソンへ挑戦します、と話してくれた。
プランとしては、マラソンの高速化に対応するため、まずはハーフマラソンでのスピードを磨く。それから距離を延ばしていき、日本でトップクラスのランナーになるというものだった。つまり、実業団に進んでからの課題は、平地のスピードを生み出す合理的なランニング・フォームの構築だった。2009年には、5000mで13分46秒29というタイムをマークしていたし、高速化への対応も可能かと思われていた。