ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
中邑真輔とケニー・オメガは裏表?
「外国人選手」という枠は消えた!
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byEssei Hara
posted2016/09/19 07:00
後藤洋央紀との死闘を制し、G1史上初の外国人王者となったケニー・オメガ。9月22日には、YOSHI-HASHIとのIWGPヘビー級王座権利証争奪戦に臨む。
全員がメインクラスのG1は衝撃的だった。
そんな中、'91年夏に満を持して開催されたのが第1回の『G1クライマックス』。これはプロレス史の中でも、きわめて画期的な大会だった。
これまで大型リーグ戦は、全国を巡業し、決勝戦を東京の大会場で行うという興行スタイル。そして出場メンバーは、トップレスラーから、いわゆる“白星配給係”まで玉石混交。そのため、あきらかに格が違う者同士の勝敗が見え見えの試合や、消化試合が数多く発生するという問題点もあった。
ところが、この第1回の『G1』は、出場選手が武藤、蝶野、橋本、藤波辰爾、長州力、ビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバン・ビガロ、スコット・ノートンと、全員がメインイベンター。興行形態も当時のプロレス界では前代未聞の両国国技館3連戦プラス、愛知県体育館と、大会場だけの超短期決戦。公式戦すべてのカードがメインイベント級であり、誰が優勝するかまったく読めないこの大会は大反響を呼び、人気が爆発。以降、『G1』は現在まで、新日本年間最大のドル箱シリーズとなったのだ。
2010年以降外国人選手が複数参戦を始め、遂に……。
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ただ、『G1』はベイダー、ビガロ、ノートンの“3強”が出場した第1回と、アメリカのメジャー団体WCWと提携した第2回こそ、多くの外国人レスラーが参戦したが、それ以降はほぼ日本人主体の大会となり、'93年の第3回から2009年の第19回までは、出場全選手が日本人、もしくは外国人が出場しても、せいぜい1~2選手という状態が続いた。この間は、状況的に外国人選手が優勝する可能性自体、ほぼなかったのだ。
それが2010年になると、現在のような外国人選手も複数参戦するかたちに変わっていく。
そして2012年の第22回大会では、カール・アンダーソンが外国人選手としては、第2回大会のリック・ルード以来、じつに20年ぶりに決勝に進出。その4年後となる今年、ついにケニー・オメガが初の外国人『G1』覇者となったのだ。