ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER

中邑真輔とケニー・オメガは裏表?
「外国人選手」という枠は消えた! 

text by

堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

PROFILE

photograph byEssei Hara

posted2016/09/19 07:00

中邑真輔とケニー・オメガは裏表?「外国人選手」という枠は消えた!<Number Web> photograph by Essei Hara

後藤洋央紀との死闘を制し、G1史上初の外国人王者となったケニー・オメガ。9月22日には、YOSHI-HASHIとのIWGPヘビー級王座権利証争奪戦に臨む。

IWGPは発足当初、リーグ戦だった!?

『MSGシリーズ』はこの第5回大会で終了。'83年からは、さらにグレードアップさせたビッグイベント『IWGP』がスタートする。

 IWGPといえば、いまでは新日本のタイトル(チャンピオンベルト)の呼称となっているが、当初の理念は「世界中に乱立するベルトを統一し、真の世界一を決める大会」というコンセプトで、IWGP(インターナショナル・レスリング・グランプリ)と名付けられたものだった。

 '83年の第1回大会は、アジア、北米、中南米、欧州、各地域からの代表選手が集まり総当たりリーグ戦が行われ、決勝に残ったのが猪木とホーガン。日本のプロレスファンの大半は、猪木が3年越しで開催にこぎつけたIWGPで優勝することを期待し、確信する中で、その猪木はまさかの失神KO負け。そのまま救急車で運ばれる事態となり、優勝したホーガンがオロオロとうろたえる姿が、強烈な印象として残った。

出場した大会のほとんどで猪木が優勝する一強時代。

ADVERTISEMENT

 翌年の『第2回IWGP』は、長州乱入による不透明決着ながら、決勝で猪木がホーガンにリベンジし優勝。結局、『IWGP』は最後の開催となる'87年の第5回大会まで、猪木が4連続優勝を飾った。

 つまり、『G1』以前のリーグ戦は、『第1回IWGP』での“大アクシデント”と、決勝を棄権しアンドレが優勝した『第5回MSGシリーズ』以外、猪木は出場した全大会で優勝。当時は、あくまでエース猪木が絶対的な主役であり、外国人レスラーの優勝が珍しいどころか、猪木以外のレスラーが優勝すること自体が、きわめて稀だったのだ。

『IWGP』が第5回で封印されたあと、'88年からしばらく新日本ではシングルの大型リーグ戦自体が行われなくなった。その間、'89年に猪木が参院選に初当選し現役の第一線から退き、'90年からは武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士が台頭。新日本は世代交代が一気に進み、猪木時代とは違う、複数スター制、複数エース制の時代に突入した。

【次ページ】 全員がメインクラスのG1は衝撃的だった。

BACK 1 2 3 4 NEXT
#ケニー・オメガ
#アントニオ猪木
#ハルク・ホーガン
#アンドレ・ザ・ジャイアント
#中邑真輔
#新日本プロレス

プロレスの前後の記事

ページトップ