野球場に散らばった余談としてBACK NUMBER
日の丸を背負う名誉とメダルの重圧。
安藤優也、長嶋監督の言葉を胸に。
text by
酒井俊作Shunsaku Sakai
photograph byGetty Images
posted2016/08/26 07:00
アテネ五輪では苦い記憶を刻みつけられた安藤。しかし銅メダル獲得から12年の時を経た今も阪神の中継ぎとしてプロ生活を送っている。
「日の丸を見て、日本の代表だと実感した」
頂点を義務づけられた集団の一員として初戦にリリーフ登板し、出場権獲得に貢献した。
「ユニホームに日の丸が入っているのを見て、日本の代表だと実感した。超一流が集まっていたし、オールプロも初めてで、長嶋さんが監督だったし、絶対に金メダルをとらないといけない大会。シーズン中と違う重圧がありました」
波瀾万丈の大会だった。'04年3月、長嶋監督が脳梗塞で倒れ、中畑清ヘッドコーチが監督代行を務めた。ベンチには日の丸が掲げられた。そこには、震えた筆跡で「3」と書き込まれていた。指揮を断念した長嶋監督がまひの残る右手で、したためたものだった。安藤が五輪で投げたのは1試合だった。予選リーグのオーストラリア戦に2点を追う8回から登板。先頭打者に被弾するなど、2回3失点に終わっていた。
「1試合しか投げていないけど、すごくプレッシャーを感じた。自分のことだけじゃない。日本の勝敗が関わってくる。これがオリンピックなんだと思った」
野球人生の糧となった長嶋監督からの手紙。
予選を6勝1敗で突破したが、準決勝オーストラリア戦でジェフ・ウィリアムス(現阪神駐米スカウト)らに抑えられて惜敗。銅メダルだった。大会中、同僚に球の握りを聞いては、練習で試した。一流の立ち居振る舞いに刺激を受けた。登板機会には恵まれなかったが、何よりも大切な「宝物」を手に入れていた。
たった1通の手紙が、その後の野球人生を照らす糧になった。日本代表としてアテネに旅立つ前、手元に届いたものだった。5行ほどの簡潔なメッセージを何度も何度も読み返した。
「安藤くんの外角低めへのストレートは素晴らしい一級品です。それを世界の舞台で発揮してほしい」
差出人は監督の長嶋茂雄だった。志半ばで病魔に倒れたが、メンバー1人1人にはエールを送っていたという。ワープロで几帳面に綴られた文面だった。安藤は振り返る。
「手紙をいただいた心遣いは相当、うれしかった。まだ、プロ3年目だったけど、すごく自信になりました。長嶋さんがそういうことを言ってくださって。僕みたいな若い選手でも、ちゃんと特長を見てくださっていた」
いまも克明に記憶するフレーズは心の支えになっている。