野球場に散らばった余談としてBACK NUMBER
日の丸を背負う名誉とメダルの重圧。
安藤優也、長嶋監督の言葉を胸に。
text by
酒井俊作Shunsaku Sakai
photograph byGetty Images
posted2016/08/26 07:00
アテネ五輪では苦い記憶を刻みつけられた安藤。しかし銅メダル獲得から12年の時を経た今も阪神の中継ぎとしてプロ生活を送っている。
大学時代に磨き上げた「外角低め」の制球力。
五輪は子どものころからの夢だった。大分で中学生だったときだ。安藤少年はクラスの文集によどみなく書き連ねた。
「甲子園に出て東京六大学野球でプレーして、社会人の強豪で活躍してオリンピックに出て、プロに行く」
'92年のバルセロナ五輪で躍動する杉浦正則に魅了された。無我夢中で白球を追い、思いを募らせ、法大に進んだ。
長嶋監督が惚れた「外角低めへのストレート」を磨いたのはこの時期だ。大学3年の頃、右肩を痛め、思うように投げられない。
「速い球を投げられず、ずっと低め低めに投げる練習をしていました。体に染みついたものがあるから」
マウンドに上がると、自らの体から外角低めに伸びるラインを引く。そしてズバッと投げ込む。「何千球、何万球と投げたから……」。鍛えに鍛えた制球で、自ら引き寄せた国際舞台だろう。
「日の丸を背負えたのは、自信になった」
五輪の後、安藤は栄光も挫折も味わった。翌'05年から先発に転向し、11勝を挙げてリーグ優勝に貢献すると、'08年から3年連続開幕投手として白星を挙げたのは球団初だった。その一方、屈辱の日々も過ごした。'10年は防御率7.27の惨状だった。'11年は右肩痛など故障で苦しみ、わずか1試合しか投げられなかった。それでも、くじけず、真冬でもブルペンで投球練習を重ねた。近年は再びセットアッパーとして、僅差の試合で右腕を振るう日々だ。
いったい、五輪はアスリートにとって何なのか。安藤は、この問いに、しばし沈黙し、それでも、言いよどむ。「技術的に球種を覚えてきたとか、そういうものでもないし……」。だが、こう言って締めくくった。
「日の丸を背負えたのは、自分のなかで自信になった。あのメンバーのなかにいられたこと、そこはいまでも誇りに思います」
そういえば、今年6月ごろだったか、久しぶりに再会した、かつての同僚にこんなことを言っていた。
「外角低めの真っすぐは自分の生命線ですから」
生きざまがにじみ出ていた。