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<最後の日本人取材者の記憶>
病床でも、クライフはクライフだった。
text by
豊福晋Shin Toyofuku
photograph byDaisuke Nakashima
posted2016/05/02 07:00
まだ68歳だったフライング・ダッチマンことヘンドリック・ヨハネス・クライフは3月24日、息を引き取った。
「本当に何かを与えてくれるのは……」
最も印象に残った話は、テクノロジーと人との関係性だ。
「“SNSのフォロワーが1万人いる”と人は誇ります。しかし本当に何かを与えてくれるのは、あなた自身が追い続けているものなのです」
クライフは携帯電話もタブレット端末も持たないから、居場所を突き止めるには事務所か自宅に電話しなければならなかった。
「なぜそれらが必要なのです? 私の居場所など、家族はみんな知っていますよ」
リアルな感覚を求めた生き様。
彼は触れることのできる、リアルな感覚を好んだ。「先へ進むのはいつも、熱い地元愛を持った選手なのです」と、バルサには時間をかけ、地元愛で育んだ選手を求めた。スターを獲得するために100億円を払い、ペタペタとステッカーを貼っていくようなチーム作りに意義を見出さなかった。それは彼の生き様でもあった。
「あらゆるものを、自分の目で見るのです」
最後に握手をした。薄いブルーの瞳がこちらをまっすぐに見た。右手は、しっかりと温かった。書類にたくさんサインをしなきゃならないのです、これが終わらなくてね、と言って彼は書斎へと消えていった。
それが、僕が目にした偉大なるヨハン・クライフの最後の姿だ。
その頃、彼とは広告の話(皮肉にもタブレット端末に関する件だった。「ああいうものは大嫌いです」と彼は首を振った)を進めていたので、また打ち合わせをする予定だったけれど、それは実現せずに終わる。