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吉原知子が監督として帰ってきた。
JTを甦らせた流儀はやはり“闘将”。
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph byKyodo News
posted2016/04/14 10:30
男社会であるバレーボールの指導者界で、吉原知子監督の存在感は際立つ。監督歴1年での昇格は流石としか言いようがない。
他の選手に関与しない2人のリーダーを、変える。
そんな中、吉原監督が一番変わったと感じているのが、主将の井上琴絵と、コートキャプテンを務めた奥村だ。
2人とも、自分の仕事はきっちり果たすが、他の選手にはあまり干渉しないタイプだった。しかし吉原監督は、チームのリーダーとして、そのままでいることを許さなかった。ことあるごとにこう言い聞かせた。
「自分の仕事をちゃんとやるだけじゃなく、心を鬼にして、人にも『やれてないよ』と言えるようにならなきゃいけない。それがリーダーとしてあるべき姿だよね。選手同士で、ダメなものはダメとハッキリ言える関係性を作っていかないと闘えないよ」
それはまさに、現役時代に吉原自身がやってきたことだった。
「最初に来た時のJTは、アテネの時のチームにすごく似ていたんです」
2000年のシドニー五輪出場を逃して低迷が続き、自身が主将として呼び戻された'03年当時の全日本と、監督就任当初のJTを重ねた。
「やっぱり負け続けると自信がなくなってしまう。もちろんプレミアに昇格したいという気持ちはあるんですけど、どこかで負け犬根性というか、できないかも、という気持ちがあったんじゃないか。だから、『できるからね。できるからね』とずっと言い続けてきました」
現役時代のように、同じコートに立って引っ張ることはできない。だから言葉で選手たちの背中を押した。それと同時に、スパイク決定率などクリアすべき目標数値を設定したり、毎試合細かく反省点を分析し、次戦でそれを克服することを掲げた。
自身も務めたミドルブロッカーには高い要求を。
今季、チャレンジリーグで全勝優勝を果たしただけでなく、そうして設定された目標を1戦1戦クリアしていくことで、選手たちは自信を深めていった。
吉原監督はミドルブロッカー出身ということもあり、特にミドルブロッカーへの要求は高かった。芥川愛加は言う。
「トモさん(吉原監督)にはずっと、『ミドルが柱にならなきゃ』と言われ続けてきました。自分たちミドルが機能しないと、両サイドも機能しない。だからブロックに跳んだ後もすぐ、何度でも攻撃に入るというハードワークをすごく求められましたし、セッターを助けるためにも、自分たちがバレーを理解しなきゃいけないとやってきました」
全体ミーティングとは別に、セッターとミドルブロッカーだけのミーティングを行い、この場面ではどういう組み立てをすべきかなどを一緒に研究した。そうすることで、試合中のコンビがスムーズになり、ブロッカーとしても、「今こういう状況だから相手はここにトスを上げるだろう」と相手の攻撃を予測できるようになった。