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<高校野球100年を振り返る>
甲子園を彩った5人のアイドル球児。
posted2015/07/08 10:00
text by
Number編集部Sports Graphic Number
photograph by
Hideki Sugiyama
甲子園のヒーローが甲子園のアイドルとなったのは、今から46年前の昭和44年の夏、松山商業との決勝戦2試合(1試合目は延長18回0-0で再試合、2試合目も完投したが惜敗)を戦い抜いた悲劇のエース・青森県立三沢高校の太田幸司が元祖だ、というのが定説となっている。春の大会でも女性ファンがかなりついていたというが、当時の雑誌をひもとくと決勝再試合の直後、野球部の宿舎の前はこんなふうだった。
「アイドルとおっかけ」が高校野球に生まれた瞬間。
「ひっそりと立つ旅館・宝楽荘の門前に、三十人ばかりの女子学生の群れがあった。花束を手にする者、お手製と一目でわかる大きな人形を抱いた者。
『太田さーん、顔だけでいいの! 窓から顔を出してちょうだい』
閉ざされた窓に向けて、カン高い黄色い声がこだまする。その声はやや短くなった晩夏の日が落ち、虫の音が騒がしくなるまで、何度も何度も続いていた」(「週刊言論」昭和44年9月3日号)
太田はこれまで2度も同じ宿に泊まったが、こんな現象は宿の従業員もはじめてのこと、と驚いている。「アイドルとおっかけ」という関係性が、高校野球史上、はじめて生まれた瞬間だった。
Sports Graphic Numberでは現在、「高校野球100年」を記念して、「記憶に残る名勝負、名試合」のアンケートを緊急実施中。この100年を振り返る特別コラム第3弾では、甲子園のアイドルが時代によってどんな変遷を遂げて行ったのか、簡単にレビューしておこう。
「延長→惜敗」がアイドルの王道。
ちなみに太田がアイドルとなった昭和44年は、グループサウンズ・ブームのさなか。萩原健一や沢田研二がそれぞれのバンドであまたの女性たちを虜にしていたころである。その5年後、西城秀樹や郷ひろみ、野口五郎の「新御三家」が人気を集めている時に、「キャー! こっち向いてー!」と騒がれたのが、鹿児島実業の定岡正二だった。夏の大会、東海大相模との延長戦の死闘を制するも、続く準決勝で手首を負傷し惜敗。「延長→惜敗」というアイドルの王道を歩んだ甘いマスクの定岡クンは、当時のインタビューにこう答えている。