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<高校野球100年を振り返る>
“高校球児・王貞治”と甲子園。
text by
Number編集部Sports Graphic Number
photograph byKyodo News
posted2015/07/01 16:30
1957年、夏の甲子園で力投する王貞治氏。現在75歳の王氏は、どんな球を投げるのだろうか。
16歳とは思えぬ、超高校級の投手だった王氏。
翌日の大会総評でも、大絶賛。
「その柔らかい投球フォームから投げおろす快速球は気持よく打者の内角低めに決まり、また鋭いインドロにも制球力があり、その安定したピッチングは十六歳とはみえぬ超高校級の威力を遺憾なく示した。しかも打っては対柳井戦から久留米、高知と三試合ことごとく好機に好打を飛ばし、味方得点力の中枢的働きを演ずるなど、その攻守にわたる活躍ぶりは文字通り優勝へのけん引車であったといってよい。(中略)『私はいつも平常の力が出るように投げるのをモットーにしています』と語るあたり、実に明朗でしっかり者、いかにもスポーツマンらしく、監督、野球部長も『実に好人物です』とタイコ判を押している」(同前)
高校2年生にして、すでに“球界の紳士”の片鱗が窺える受け答えだ。
ちなみに「インドロ」とは打者のインコースに食い込んでくるドロップボールのこと。今で言う、縦変化のカーブか、スライダーか……。いずれにしても、王の投打にわたる活躍で優勝を果たした早実野球部の選手たちは、東京駅から四ツ谷、新宿へとオープンカーでパレードを行った。紫紺の大優勝旗が史上初めて箱根を越え、東京の高校がはじめて日本一に輝いたとあって、沿道からは大歓声が上がる。そしてこの頃から、王の実家・中華料理店「五十番」に、プロのスカウトが訪ねてくるようになる。
高2の頃が「投手・王」のピークだった。
投手・王は同年夏の大会でも輝いた。2回戦、強豪・寝屋川高校を相手にノーヒットノーラン、それも延長11回を無安打無得点に抑えるという快挙を打ち立てた。ただし、のちに自身も「この高2の頃が投手・王のピークで、以降は打者・王が本格化してくる」と語っている通り、3年春の大会は、2戦目(準々決勝)で済々黌高校に打ち込まれ敗退。むしろ1戦目、御所実業高校戦での広い甲子園の左中間席に打ち込んだ一発が、スカウトの注目を集めた。
そして、最後の夏。東京都大会決勝。
明治高校を相手に1-1で延長戦に突入した早実は、12回表に王自身のタイムリーを含む4点をもぎ取って5-1とリードする。
しかし12回裏、ヒットやエラーでランナーがたまり、1回から力投を続けて疲労困憊の王は押し出し四球を与えてしまう。
ここで王は一度マウンドを退きライトに入るが、代わったピッチャーが三塁打を打たれ、同点。再びマウンドに戻った王に、もはや相手を抑える力は残っていなかった。